🎄 待つこと、それは愛すること ―― 2025年クリスマスイブに寄せて
「待ち時間」はなぜ長く感じるのでしょうか
横断歩道の信号待ち、エレベーターを待つ数十秒、あるいはコンサート開演前の5分間。
これらの時間は、時としてひどく長く感じられます。なぜなら、私たちの心が「今」を離れ、「次に来る結果」だけを求めているからです。
一方で、大切な人と過ごす時間は、瞬きをする間に過ぎ去ってしまいます。 「待つ」という行為の長さは、時計の針が決めるのではなく、私たちの**「心の向き」**が決めるのかもしれません。
700年の静寂、そして「待望」の成就
聖書の預言者イザヤが、救い主の到来を預言してから、実際に主イエスが誕生するまでには約700年もの歳月が流れました。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
この約束を胸に、何世代もの人々が救い主を待ち望み、その日を見ることなくこの世を去っていきました。しかし、いざ「時が満ちて」救い主が馬小屋の飼い葉桶に誕生したとき、皮肉にも世界はその光に気づきませんでした。それどころか、待望していたはずのメシアを拒み、十字架に送るという悲劇さえ起こりました。
人は「自分の期待通り」の形でないと、せっかくの救いにさえ気づけないほど、盲目になってしまうことがあるのです。
今、私たちは何を待っているのか
2025年の今日、世界中で、そしてここ仙台でも、多くの人々が何かを待っています。
- 戦場にいる人々は、砲声の止む**「平和な時」**を。
- 人生の最後を迎えようとしている人々は、痛みのない**「安らかな時」**を。
- 多忙なサラリーマンは、家族との時間を豊かにする**「ささやかな報酬」**を。
そして私個人にとっても、今年のクリスマスイブは特別な「待ち時間」の中にあります。本日12月24日、20歳になる娘が、古川星稜病院にてガンマナイフの施術を受けています。病院の廊下で、あるいは祈りの中で過ごすこの時間は、親として、そして牧師として、神様の御心を静かに待つ時間でもあります。
現実は理想と違っても、愛はそこにある
期待通りにすべてが運ぶことが「幸せ」だと思われがちです。しかし、現実には病があり、別れがあり、不条理があります。
クリスマスの本当のメッセージは、**「神様が私たちの『待ち時間』の中に、共に入ってくださった」**ということです。馬小屋という不自由な現実の中に、神様は愛として来られました。私たちが「理想」を追い求めてイライラしているときも、「現実」の重荷に腰を曲げているときも、主は私たちのすぐ隣に立ち、共に待ってくださっています。
待つことは、苦しいことではありません。それは、「必ず光が来る」と神様を信頼し、愛することです。
今日、目に見えない神様の愛が、あなたの「今」を優しく包み込んでいますように。
メリークリスマス。 あなたの待っているその場所に、確かな光が届きますように。
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