「透明な独房」としての自由に、教会は何を語るか
スマートフォン一つで、食事も届き、映画も見られ、振込も完了する。誰にも頭を下げずに生きていける――そんな現代の暮らしは、一見「自由」に満ちているように見えます。けれどその実態は、「透明な独房」のようなものかもしれません。
人々は本当に「考えること」をやめたのでしょうか。 もしかすると、「考えても孤独が深まるだけだから、考えないようにして心を麻痺させている」のかもしれません。
ただ生きているだけ。乾いたスポンジのように、何も吸い込めず、何も染み込まない心。 そんな現代人に、教会は何を語ることができるでしょうか。
ここでは、3つの視点を提案します。
1. 「『助けて』と言えることが、最強の能力である」と語る
今の社会は、「一人でできること」が優秀さの証明だと教えます。 だから、人に頼ることは「負け」や「迷惑」だと感じてしまい、SOSを出せなくなってしまう。 でも、聖書はこう語ります。「弱さこそが、人と人とをつなぐ接着剤である」と。
一人で生きていける便利さは、あなたを強くしたのではなく、あなたを孤立させただけかもしれません。 本当の強さは、自分の弱さを認め、「誰かが必要だ」と手を伸ばせる勇気です。
教会は、強い人が集まる場所ではなく、自分の弱さを安心してさらけ出せる場所です。
2. 「あなたは『その他大勢』ではない」と語る
「ただ生きるだけ」になってしまうのは、自分が社会の歯車の一つ、交換可能な部品のように感じてしまうからです。 「私がいてもいなくても、世界は変わらない」――そんな虚無感に、神のまなざしを差し込みます。
画面の中の華やかな世界や、数字で評価される社会は、あなたの価値を教えてくれません。 しかし、あなたを造られた神は、あなたの髪の毛一本まで数え、あなたの名前を呼んでおられます。
あなたは「消費される存在」ではなく、「愛されるために造られた存在」です。 あなたの人生には、あなたにしか描けない物語があります。
3. 「見えない隣人(神)が、すでに横にいる」と語る
「教会に来れば仲間がいますよ」と言われても、心が閉じている人には、その一歩がとても遠く感じられます。 だからこそ、まずは「究極の隣人」を紹介することが大切です。
夜、部屋で一人ぼっちだと感じる時、誰も理解者がいないと感じる時、実はあなたは独りではありません。 イエス・キリストというお方が、あなたの孤独を誰よりも理解し、今、その部屋の片隅であなたと共にいてくださいます。
まず、この見えない友人に、独り言のように話しかけてみませんか? それが「祈り」の始まりです。
砂漠に水を一滴垂らすように
21世紀の孤独な人々は、長い説教や複雑な教理よりも、「ここに、あなたの居場所がある」という事実を求めています。
難しく考えるのをやめた人々には、難しい言葉ではなく、 「疲れたでしょう。少し荷物を下ろしても大丈夫ですよ」 という、イエス様のまなざしを、現代の言葉で翻訳して語り続けることが、最も力強いメッセージになるのではないでしょうか。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 ――マタイによる福音書 11章28節
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