朝日のごとく、変わらぬ愛の階段を
255段の先に、吐息が白く弾ける朝
今朝は、仙台の静かな街並みを見下ろす大年寺山公園へと足を運びました。目の前にそびえるのは、255段の石段。一段踏み出すたびに、肺の奥まで届く冷たい空気が、白く力強い吐息となって冬の朝に溶けていきます。一歩一歩、石の冷たさを足裏に感じながら上り続けるとき、身体は重く、心は「今日はこの辺で」と囁きかけてくることがあります。しかし、太ももに感じる熱い鼓動が、今、自分がここに生きていることを無言で告げていました。
変わらないものを見つけるための「登り」
なぜ、私たちはわざわざ苦しい階段を上るのでしょうか。 それは、頂上に辿り着いた者だけが受け取れる「約束」があるからです。「前進!!!」
息を切らし、ようやく最後の一段を上り終えたとき、東の空がゆっくりと、しかし確実に色づき始めました。どれほど夜が長く、どれほど寒さが厳しくても、朝日は必ず昇ります。昨日も、今日も、そして明日も、太陽はその輝きを止めることはありません。
この「決して裏切らない光」を眺めていると、私たちの心にある迷いや疲れが、少しずつ浄化されていくような気がします。
切に求める人の上に注がれる「光」
聖書は、私たちの人生を照らす光について、このように教えてくれています。
神様の愛も、それを切に求める人の上に、必ず注がれる。
太陽の光が、上を向いた者の顔を等しく照らすように、神様の愛もまた、「助けてください」「導いてください」と顔を上げる人のもとへ、惜しみなく届けられます。
私たちが朝日をコントロールできないように、神様の愛もまた、私たちの失敗や不完全さによって変わるものではありません。それは太陽のように、ただそこにあり、私たちを温め続けてくれるものです。
「朝日のように変わらない心をもって、人々を愛したい」
そう願うとき、私たちは自分の力だけで頑張るのをやめることができます。私たちが愛せるのは、まず私たちが「決して変わらない愛」をたっぷりとうけているからなのです。
希望を抱いて、再び歩き出す
人生という階段は、時に255段よりもずっと長く、険しく感じられるかもしれません。足が震え、先が見えなくなる夜もあるでしょう。
けれど、どうか諦めないでください。 あなたが一段一段、重い足を運んでいるそのすぐ隣に、愛の主は共におられます。あなたが光を求めて顔を上げるなら、そこには必ず、あなたを包み込む温かな夜明けが待っています。特別な何かを成し遂げなくてもいい。
ただ、その愛を信じて、今日という一日を誠実に歩み続けること。 その足跡こそが、誰かの道を照らす小さな光になっていくはずです。冬の風はまだ冷たいですが、私たちの内側には、消えることのない太陽が昇っています。
今日も、精一杯に生きることです。
コメント
コメントを投稿