「前進」の石と、成人の日に思うこと
今日は散歩の日──と勝手に名づけて、 大年寺の255段を走って上ることに挑戦してみました。 結果は、3分の2まで成功。 残りの3分の1は、今月中にクリアするという新たな目標ができました。
この階段を上り切った先に、私の好きな言葉が刻まれた石があります。 「前進」──ただそれだけ。 何度も写真に収めてきたこの言葉ですが、何度見ても飽きることがありません。 飾り気のない一語に、どれだけの力が込められていることか。
その足で愛宕神社へ向かうと、 新年の恒例行事として多くの人々が参拝に訪れていました。 スーツ姿の会社員、部活動の学生たち── それぞれの願いを胸に、手を合わせていました。
人間は、自分の力だけでは生きられない存在なのだと、 こうした光景を見るたびに思わされます。
最先端の技術で造られた軍艦の前でさえ、 人は儀式を行い、祈りを捧げる。 それは、「自分は完全ではない」と認める行為なのかもしれません。
けれど同時に、人間は「神なき世界」を築こうとする存在でもあります。 科学、経済、技術、娯楽── あらゆる手段を用いて、自分の力で未来を切り開こうとする。 この矛盾こそが、私たちの現実です。
聖書は語ります。 人間が神を認めようと認めまいと、 神は変わらず、ご自身の御心によって世界を導いておられると。「主はあなたを祝福し、あなたを守られますように。
主の御顔をあなたに向け、恵みをお与えになりますように。」(民数記6:24–26)
この祝祷の言葉は、人生の階段を上り続けるすべての人に、等しく注がれている祝福の約束です。「前進」── それは、ただ前に進むことではなく、 どこに向かって進むかを問いながら歩むこと。今日もまた、階段の途中で立ち止まりながら、 その石の言葉に背中を押されました。さあ、残りの3分の1へ。 そして、信仰の道のりもまた、 一歩ずつ、主と共に。
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