苦しみを「味わう」という、静かな生の確信
日曜日の朝、予定外の二十一キロ
今朝は六時二十分、まだ街が眠りから覚めきらぬ時間に走り出しました。 本来、日曜日は礼拝の日。心身を整えるための「休みの日」にするはずでしたが、どうしても足が外を向きました。体が、そして魂が、あの冷たい空気を求めていたのかもしれません。
結局、一歩、また一歩と路面を蹴り、二十一キロを完走しました。 走り出した瞬間の凍てつくような冷たさが、不思議と「美味しい」と感じられる。そんな感覚から始まった朝でした。
「苦しさ」を避けるのではなく、受け入れる
走り始めて中盤を過ぎると、当然のように息が上がり、筋肉には重みが加わります。 かつての私は、この「苦しみ」をどうにかして取り除きたい、早く終わらせたい対象として捉えていました。しかし、今朝の二十一キロの中で、一つの気づきが降りてきました。
それは、**「苦しみを味わいながら走り続ける」**ということです。
苦しいのは、生きている証拠です。 心臓が激しく鼓動し、肺が必死に酸素を取り込み、足が重力に抗っている。その「苦しみ」の感触こそが、今自分がこの世界に確かに存在し、命を燃やしているという最も生々しい手応えなのだと、走るほどに腑に落ちていきました。
人生という道の「味」
私たちはついつい、苦しみのない平坦な道こそが「幸せな人生」だと考えがちです。 しかし、聖書が語る「道」は、常に山あり谷ありの、決して楽ではない道のりです。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練られた品性を、練られた品性は希望を生み出すということを。」(ローマの信徒への手紙 5章3〜4節)
ここでいう「忍耐」とは、ただ歯を食いしばって耐え忍ぶことだけを指すのではありません。それは、与えられた状況――たとえそれが苦渋に満ちたものであっても――を、自分の人生の「味」として深く味わい、受け止めていくプロセスではないでしょうか。
人生とは、苦しみを取り除く作業ではなく、その苦しみさえも「生」の一部として大切に味わいながら、今日を生き続けることなのです。
希望を持って、今を呼吸するあなたへ
今、あなたの人生が「苦い」と感じられるかもしれません。 冷たい風にさらされ、足が止まりそうになっているかもしれません。けれど、その冷たさを「美味しい」と感じる感性が、あなたの中にも必ず眠っています。苦しみを知る人だけが持てる、優しさと強さがあるのです。特別な成功がなくても、劇的な逆転劇がなくても、今日を精一杯に生き、呼吸している。それだけで、あなたはもう十分に勝利しています。さあ、深く息を吸い込んで。
自分だけの、このかけがえのない人生を味わい尽くしましょう。
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