走れなくなる日が来ても──信仰が導く「次の一歩」
ある日、ふと気づくことがあります。 「いつまで、今のように走り続けられるだろうか」と。年齢や体力の衰え、環境の変化、思いがけない病や出来事── 私たちの人生には、避けがたい“限界”や“終わり”が訪れます。 それは、誰にとっても例外ではありません。
けれど、信仰者にとって大切なのは、 「いつまで走れるか」ではなく、 「走れなくなったとき、何を信じて立ち上がるか」ではないでしょうか。
私自身、これまで多くの道を歩いてきました。 祈りながら山を登り、震災の爪痕をたどって石巻や福島の町を歩き、 時には雪の中、スーツ姿で夜通し歩いたこともありました。(講壇交換のために)
その一歩一歩に、主との対話がありました。
朝のランニングは大事な日課の一つとして今は定着しています。 けれど、心のどこかで分かっているのです。 いつか、走れなくなる日が来るということを。それは悲しいことではありません。
むしろ、新しい歩みへの備えです。 その時にふさわしいリズムがあり、 その時にしかできない祈りや奉仕がある。 だからこそ、変化を恐れず、柔らかく受け入れる心を持ちたいと願っています。そのために必要なのは、信仰です。
主にすべてをゆだねる信仰。 自分の力や計画ではなく、 主の御心に従って生きるという、静かな決意です。
私たちの体はやがて塵に帰ります。 しかし、魂は天の御国へと旅立ちます。 そして最後の日には、 イエス・キリストが復活されたように、
私たちも新しい体をいただき、 主と共に永遠の祝宴に与るのです。この復活の信仰があるからこそ、 将来を恐れることなく、希望をもって歩むことができます。
たとえ今、あなたが苦しみの中にあっても、 不安や孤独に押しつぶされそうになっていても、 主はあなたを見捨ててはおられません。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さの中で完全に現れる。」 ――コリントの信徒への手紙二 12章9節
この確かな約束の上に立って、 今日という日を、信仰をもって歩んでいきましょう。
走れなくてもいいのです。 イエス・キリストによって救われた人生こそが、最も幸いな人生なのですから。あなたの歩みに、主の平和と守りと導きが豊かにありますように。
そして、どんな季節にも、主が共にいてくださるという確信が、 あなたの心を静かに支えてくれますように。🕊️🌿今日も精一杯に生きることです。
コメント
コメントを投稿