響き合う「不協和音」の向こう側 —— 日本の未来を編み直す祈り
朝霧の中に立つ、無数の選挙ポスター
今朝は、選挙ポスターのための掲示板が街灯に照らされているのを目にしました。
来月に控えた衆議院選挙。公示を前に、街には少しずつ、独特の熱気と緊張感が漂い始めています。歩きながらその景色を眺めていると、ふと一つの問いが頭をよぎりました。「なぜ、私たちはこれほどまでに細かく分かれてしまうのだろうか?」という問いです。
「似ている」からこそ、遠ざかる不思議
海の向こう、アメリカに目を向ければ、多種多様な民族や文化が混ざり合う「人種のるつぼ」でありながら、政治は驚くほどシンプルに、民主党と共和党という二つの大きな流れに集約されています。
一方で、日本はどうでしょうか。歴史的にも文化的にも高い同質性を持ち、「単一民族」に近いとされるこの国で、野党はいくつもの小さな枝に分かれ、なかなか一つにまとまることができません。
なぜ、背景がバラバラな人々が二つにまとまり、背景が似通っているこの国の人々は、これほどまでに細かく分裂してしまうのでしょうか。
そこには、日本特有の「内と外」を峻別する心理——いわゆる**「村意識」**が影を落としているのかもしれません。私たちは、ほんのわずかな考え方の違いを、大きな「断絶」として捉えてしまう傾向があります。似ているからこそ、少しの相違が許せなくなる。心理学で言えば「小さな差異へのナルシシズム」のようなものが、結束を阻んでいるのかもしれません。
「同じ色」ではなく「一つの絵」を目指す
聖書の中には、非常に示唆に富んだ言葉があります。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストもまた同様である。」(コリントの信徒への手紙一 12章12節)
信仰の世界が教えてくれるのは、「一つになる」とは「同じ色に染まること」ではないということです。手には手の、足には足の役割があるように、多様な声が存在すること自体は、本来、豊かさの象徴です。
日本の政治や社会が抱える「バラバラさ」という課題に対する解決の道は、無理に一つに統合することではありません。むしろ、自分とは異なる意見を持つ人を「排除すべき他者」ではなく、「同じ社会という体の一部」として認め合うことにあります。
1950年代のロンドンを描いた映画『LIVING』の主人公がそうであったように、大きな政治的イデオロギーに命を懸ける前に、目の前にある「公園をつくる(小さな善意を実現する)」という具体的な目標のために手を取り合うこと。抽象的な理想でぶつかり合うのではなく、**「今、ここで共に生きる人々の幸せ」**という一点に、すべてのエネルギーを集中させる。それこそが、分断を乗り越える「第三の道」ではないでしょうか。
日本の未来を照らす「対話」という光
数多くの政党が存在することは、それだけ多様な「願い」があるということでもあります。それを「弱さ」とするか「可能性」とするかは、私たちの心の持ち方次第です。
自分たちだけの正義を叫ぶのではなく、相手の正義にも耳を傾ける「余白」を心に持つこと。効率やスピードを優先して強引にまとめるのではなく、手間と時間をかけて「納得」を積み上げていくこと。
一気に山を登り切ることはできなくても、今日一日の歩みの中で、隣人と笑顔を交わし、小さな理解を築く。その「草の根の和解」の積み重ねこそが、この国の未来という大きな地図を、希望の色に塗り替えていくのだと私は信じています。
選挙が近づくと、どうしても言葉が刺々しくなりがちです。けれど、私たちは誰かを倒すために生きているのではなく、共にこの国を愛し、次世代に手渡すために生きています。
たとえ支持する色が違っても、同じ空の下で「より良い未来」を願う仲間であることを忘れないでいたいですね。
今日も、前進です。
コメント
コメントを投稿