🍃 「大丈夫」という名の、優しい強がり。
「大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫です」と答える。 私たちは一日に何度、このやり取りを繰り返しているでしょうか。
本当は、誰かの助けが必要なとき。 本当は、心が折れそうで、泣きたくなり、立っているのが精一杯なとき。 それなのに、私たちの口からは魔法の呪文のように「大丈夫」という言葉がこぼれ落ちます。
お父さんも、家族の前で「大丈夫」と言います。 お母さんも、忙しさの中で「大丈夫」と言います。 そして、親の顔色をうかがう子どもたちもまた、「大丈夫」と微笑みます。
でも、ふと思うのです。 この「大丈夫」は、本当は「大丈夫じゃない」という心の裏返しなのではないか、と。
鏡の中の「空っぽな人生」
なぜ私たちは、これほどまでに強がってしまうのでしょうか。 それは、自分の弱さを見せることが怖いからかもしれません。「強い自分」であり続けたい、周囲からそう見られたいという願いが、いつの間にか自分を縛り付けてしまう。
自分の人生なのに、どこか「人に見せるための人生」を演じてはいないでしょうか。 誰かに評価されるための、中身が空っぽな、見栄えだけの人生。
そうやって自分を偽り続けることは、どれほど孤独で息苦しいことでしょう。
ふと考えました。こんなふうに強がるのは、人間だけなのでしょうか。 傷ついた動物は、ただ静かに傷を癒やそうと丸まります。痛ければ鳴き、動けなければ止まる。ありのままの「弱さ」の中に生きています。
「大丈夫なふり」をして、無理に走り続けようとするのは、人間だけの不器用な性質なのかもしれません。
「大丈夫じゃない」と言える場所
今朝、私は暗闇の中を32キロ走りました。 走りながら、神様の前でだけは、私は「大丈夫」という仮面を脱ぐことができます。
息が上がり、足が止まりそうになるとき、「主よ、助けてください。私は弱いです」と、ありのままの自分を差し出すことができます。
聖書に登場するソロモン王も、一千頭の捧げ物をした後に、自分の未熟さを神様に告白しました。「私は小さな子供にすぎず、出入りすることも知りません」と。その弱さの告白こそが、神様から知恵をいただく入り口となったのです。
今度の日曜日、成人式を迎える若者たちに伝えたいことがあります。 「大人になることは、一人で何でも大丈夫だと言えるようになることじゃない。自分が大丈夫じゃないとき、素直に助けを求められるようになることだよ」と。
最後に
もし今、あなたが「大丈夫」という言葉を盾にして、一人で震えているのなら。 どうか、その盾をそっと置いてください。神様の前では、そしてこの教会の門をくぐるときだけは、大丈夫じゃなくていいのです。
あなたの「弱さ」は、決して恥ずべきものではありません。 そこから本当の「助け」が始まり、本当の「生きる力」が湧いてくるからです。
今夜は、自分自身にこう言ってあげてください。 「今日は大丈夫じゃなかったね。よく頑張ったね」と。 明日の朝、また新しい光が、ありのままのあなたを照らしてくれますように。
さて、ノアちゃんとの散歩も終了したし、どん兵衛そばとバナナ(この二つはいつもセットです。)を食べたので寝ることにします。
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