痛みの底に咲く、沈黙の祈り
理由もなく、胸がざわつく朝がある
「あなたは今、心のどこに『光の届かない場所』を抱えていますか」
火曜日の朝。週の始まりの勢いが少し落ち着き、ふと立ち止まった瞬間に、心の奥底から言葉にならない不安がせり上がってくることがあります。
それは、誰かに話せるような具体的な悩みというよりは、砂時計の砂が静かに落ちるのを眺めている時のような、実体のない「寂しさ」や「揺らぎ」かもしれません。
自分の弱さを隠し、強がって歩こうとすればするほど、その影は色濃く足元に伸びていきます。
言葉を失う「待ち時間」の中で
今日、私たちは一つの大きな「不在」と「静寂」の前に立っています。 手術室の重い扉の向こう側で、一人で病と向き合っている人。実習という厳しい現場で、自分の無力さと格闘している人。そして、いつも走っている八木山の橋を渡るたびに思い出される、失われた命。私たちは、彼らのために「何かをしたい」と願います。けれど、実際には祈ることしかできず、その祈りさえも、時に空虚な響きに聞こえてしまうことがあります。
「主よ、なぜ」という問いは、神学的な議論の中ではなく、こうした孤独な沈黙の淵から生まれるものです。 私たちは、自分自身の弱さという影を直視することが怖くて、つい明るい場所へと逃げ出したくなってしまうのです。
暗闇を「聖所」に変える方
しかし、聖書が語る「弱さの神学」は、その暗闇こそが、主との最も深い出会いの場であると告げています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二 12章9節より)
パウロが抱えていた「刺」が何であったかは分かりません。しかし彼は、その痛みを取り除いてほしいと三度願った末に、驚くべき真理に到達しました。
それは、痛みが消えることではなく、**「痛みの中に主がおられる」**という事実です。
私たちが「もう一歩も進めない」と膝をつくその場所は、実は神様があなたを抱き上げる場所です。 あなたが自分の弱さを認め、格好の悪い自分をそのまま主の前にさらけ出すとき、その「心の影」は、主の光が最も鮮やかに反射する聖なる鏡へと変容します。
神様は、あなたが完璧になるのを待っておられるのではありません。 あなたの震える手のひらの上に、ご自身の全能をそっと重ね合わせたいと願っておられるのです。
沈黙を共に生きる
今日、あなたの心がざわついているのなら、無理にそれを鎮めようとしなくていい。 その揺らぎを抱えたまま、主の御前に座ってみてください。
手術を待つ兄の傍らにも、実習で汗を流す娘のすぐ後ろにも、そして今この文章を読んでいるあなたの肩にも、主の傷跡のある御手が置かれています。
「大丈夫」という言葉よりも深い、「わたしはここにいる」という確信。 その静かな同在を錨として、今日という荒野を、一歩ずつ、丁寧に歩み始めましょう。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。




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