私たちは日々、「時間が足りない」「お金が足りない」「忍耐が足りない」── そんな“足りない”という言葉に囲まれて生きています。 まるで人生そのものが、常に何かを欠いたまま進んでいくように感じることさえあります。けれども、信仰の世界では、この「不足」こそが宝物なのだと語られます。
ある人はこう言いました。 「神を信頼するためには、いくらかの困難が必要だ。」
私たちは、自分の力が満ちているとき、神を忘れやすい。 しかし、心身の限界を感じ、自分の「器」が空っぽになったとき、 初めて私たちは、天を見上げるようになります。
不足とは、神が私たちの信仰と従順を育てるために、 あえて残された“余白”なのかもしれません。世界は今、混乱のただ中にあります。 争い、分断、孤独、そして心の疲れ。 私たちの内側にも、同じような揺らぎが生まれます。
「どうして自分だけがこんなに弱いのだろう」 「なぜ、こんなにも足りないのだろう」 そう思う瞬間が、誰にでもあります。
しかし、聖書の人物たちもまた、 “足りなさ”を抱えたまま歩んだ人々でした。
モーセは語る力が足りず、 エリヤは心が折れ、 パウロは「とげ」を抱えたまま生きました。
弱さは、信仰の失敗ではありません。 弱さは、神が働くための入口なのです。
パウロはこう語ります。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。」
十分ではない私たちに、 十分な恵みを与えるのは、神ご自身です。
私たちの不足は、 神の力が流れ込むための“空洞”です。
器が空であるからこそ、 神はそこに新しい命を注ぐことができる。不足は欠陥ではなく、 神が働くための“余白”なのです。
そしてその余白は、 私たちが今日を生きるための希望へと変わっていきます。
あなたの中にある「足りなさ」は、 神があなたを見放した証拠ではありません。 むしろ、神があなたを形づくろうとしているしるしです。どうか今日、
その余白を恐れず、 主が満たしてくださることを静かに信じて歩んでください。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

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