祈りの鼓動が、世界のひび割れを繋ぐとき
息を呑む世界、震える地図
世界のニュースに目を向ければ、そこには絶えず「痛み」の輪郭が描かれています。 国境を越えられない人々の列、癒えぬ傷跡を抱えた街、そして沈黙の中で自由を求める叫び。
カレンダーをめくれば、今日はある国にとっては「建国」を祝う日かもしれません。しかし、真の「平和」や「安らぎ」という土台がどこにあるのか、私たちはその答えを求めて、今日もまた混迷する世界地図の上をさまよっています。
「私一人に、何ができるのか」 そんな巨大な問いを前にすると、私たちの信仰はあまりに小さく、無力に見えてしまうものです。
二日間の軌跡、六十二キロの呻き
昨日の三十七キロに続き、今朝は二十五キロを走り抜きました。 二日間で六十二キロ。肉体は正直です。節々はきしみ、肺は燃えるような熱を帯び、一歩を踏み出すたびに「もう十分ではないか」という誘惑が、耳元で執拗に囁きかけます。(でもこれまでこういう誘惑に負けたことはありません。サンティアゴでも経験したことですが、いつも打ち勝ち乗り越えてやって参りました。)
この身体的な苦痛は、ある意味で、今のこの世界の「呻き」と共鳴しているのかもしれません。 明日の手術を控えた一人の兄弟。その不安、その痛み、その孤独。
私たちはそれらを肩代わりすることはできません。けれど、祈りながら走り続けるとき、私たちの足音は、病床にいる誰か、あるいは世界の片隅で泣いている誰かへの、目に見えない「伴走」へと変わっていきます。
命のエンジン ―― 「受命」という名の論理
私たちが自分の体力や精神力だけで生きようとすれば、六十二キロの地点でガス欠を起こし、立ち止まってしまうでしょう。 しかし、キリスト者が走り続けられるのは、自らのガソリンではなく、**「使命(ミッション)」**という名のエネルギーで動いているからです。
「しかし、わたしは、自分の走るべき道を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしするという任務を全うすることさえできれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒言行録 20章24節より)
ここでいう「任務」や「使命」とは、自分を苦しめる重荷ではありません。 それは、神様から「あなたにこの一歩を託した」と、全幅の信頼を寄せられているという**「名誉」**です。
私たちが走り、祈り、仕えること。 それは、バラバラに壊れかけた世界を、キリストの愛という糸で縫い合わせていく作業です。 あなたの疲れた足取りは、神様の目には、この世界を癒やすための最も尊い「巡礼」として映っています。
私たちが限界を超えて一歩を踏み出すとき、そこには自分の力ではなく、背中を押し、共に息をついてくださる聖霊の風が吹いているのです。
派遣の光の中へ
あなたの手元にある仕事、向き合っている家族、そして今抱えている心身の疲れ。 それらはすべて、あなたが「神様に遣わされた場所」で生きている証です。
明日の手術を待つ兄弟のために。 世界のどこかで夜明けを待つ人々のために。 そして、今ここにある自分の命のために。私たちは、一人で走っているのではありません。
主が拓かれた「道」を、主と共に、確かな使命を携えて歩んでいきましょう。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。
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