2026年2月14日土曜日

「何もしない」という名の、聖なる仕事

 


「何もしない」という名の、聖なる仕事

掌を開く静寂

使い古したペンを置き、一週間分の重みを背負った肩の力を、ふっと抜いてみる。 土曜日の朝、私たちの部屋に満ちているのは、成果を求められる「平日」の喧騒ではなく、ただそこに在ることを許された柔らかな沈黙です。私たちは、何かを成し遂げている時だけが「生きている時間」だと思い込んでしまいがちです。けれど、深く吐き出す呼吸のあとに訪れる、あのわずかな「空白」。その空白こそが、実は私たちの命を最も深く養っている時間なのかもしれません。


 


止まることへの「罪悪感」という痛み

けれど、現代を生きる私たちは「休むこと」にさえ、どこか申し訳なさを感じてしまいます。

世界のどこかでは絶えず争いが続き、誰かは病床で苦しみ、明日の生計に怯える人々がいる。そんな混沌とした世界のなかで、自分一人が歩みを止めて休息することに、言いようのない不安や罪悪感を覚えることがあります。

「もっと頑張らなければ」「遅れてしまう」。 その焦燥感は、私たちの魂をすり減らし、せっかくの安息日を「次なる戦いのための充電期間」という、効率の奴隷に変えてしまいます。私たちは、立ち止まることが怖くて、魂が悲鳴を上げていることにさえ気づかぬ振りを続けてはいないでしょうか。


 


安息は「完成」のための最後のピース

聖書が語る安息日は、単に「疲れたから休む」という受動的な休憩ではありません。 神様が天地創造の七日目に休まれたのは、疲弊したからではなく、休むことによって世界を「完成」させるためでした。

「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのほとりに伴われる。主はわたしの魂を生き返らせてくださる。」(詩篇 2323節より)

私たちが自らの意志で立ち止まり、主にすべてを委ねる時、私たちの人生という物語は、人間の努力を超えた次元で「完成」へと向かいます。 「大丈夫、すべては私の手の中にある」という主の声に耳を澄ませること。 それは、自分一人の力で世界を支えようとする傲慢さから解放され、再び「主の子」としての健やかさを取り戻すプロセスです。

癒やしとは、傷が消えることだけではありません。 苦しみの渦中にあっても、主が共に座ってくださっているという「安心」を思い出すこと。その静かな確信のなかで、私たちの魂は、涸れた井戸が潤うように、ゆっくりと生き返っていくのです。


 


祈りの余韻を携えて

今日は、完璧な人でいることをお休みしましょう。 弱いままで、疲れを抱えたままで、ただ主の懐に身を寄せてください。あなたが今日、静かに目を閉じ、深い呼吸を一つ繰り返すこと。 その「小さな安息」が、明日、誰かのために微笑むための糧となります。 主の慈しみという静かな水のほとりで、心と体を十分に整え、新しい朝の光を待ちましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

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