2026年2月13日金曜日

夜のシチューと、朝の祈りのわだち

 


夜のシチューと、朝の祈りのわだち

「美味しい、感動したよ」という、小さな肯定

「昨日のシチュー、どうだった?」とランニングから帰ってきて聞きました。(味見をしなかったので・・・いつものことですが・・・)朝の慌ただしい空気の中、支度をしている背中に投げかけたその問いに、思いがけないほどの熱量で答えが返ってくる。めちゃ美味しかった!感動です!!そんな瞬間に、世界は不意に色鮮やかさを取り戻します。

何時間も火にかけ、じっくりと味をなじませた一皿が、誰かの心と体を温めたという事実。それは、昨夜の自分が費やした時間と手間が、目に見えない「愛の形」となって相手に届いた証し)でもあります。私たちは、こうした些細な言葉のやり取りを糧にして、また新しい一日という荒野へ足を踏み出すのです。


 


繰り返される「日常」という名の巡礼

早朝四時、まだ街が眠りの中に沈んでいる頃、結局、また二十二キロの道のりへと走り出しました。 長町を抜け、昨日、手術を終えた兄が眠る病院の側を通り、西公園方面へ。

肉体は確かに疲弊しています。連日のロングランの重みが脚に残り、一歩一歩が自分自身を試すような問いかけになります。 けれど、なぜこれほどまでに自分を追い込むのか。それは、走ることそのものが「祈り」の代わりだからです。 病院の窓、実習先へ向かう娘の背中、パート先へと急ぐ妻の足取り。 私たちは皆、それぞれの持ち場で、自分にしか担えない重荷を背負って立っています。その孤独や葛藤をすべては分かち合えなくても、走ることで描くこの「円」の中に、大切な人々をそっと包み込みたいと願うのです。


 


隠れた所で見ておられる方の「熟成」

私たちが日常で行うルーティン――掃除、料理、仕事、そして祈り――は、一見すると同じことの繰り返しで、何の変化もないように思えるかもしれません。

しかし、シチューが一晩寝かせることで深みを増すように、私たちの「隠れた努力」や「人知れぬ祈り」もまた、神様の御手の中で静かに熟成されています。

「あなたの父は、隠れた所で見ておられるが、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書 66節より)

神様が私たちに求めておられるのは、派手な成功や劇的な変化ではありません。 誰も見ていない早朝に道を整えるように走ること、家族のために心を込めて鍋を火にかけること、そして今日という一日を誠実に生きようとする、その「継続」そのものです。 私たちが「足りない」と感じ、無力感に襲われるその場所で、主は共に汗を流し、共に鍋を囲んでおられます。私たちの些細な「頑張り」は、主の目には、この世界を救うための最も貴い「供え物」として映っているのです。


 


それぞれの場所へ、派遣される

妻は仕事へ、娘は学び舎へ。 そして私は、いつものように階段を掃き、内面を整えるルーティンへと戻ります。 私たちは再び、それぞれの「現場」へと送り出されていきます。

もし今日、あなたが自分のしていることに意味を見出せなくなったとしても、どうか思い出してください。あなたの淹れた一杯の茶が、あなたが交わした一言の挨拶が、そしてあなたが心の中で唱えた短い祈りが、誰かの世界を「夜明け」へと導く光になっていることを。

私たちは、主に守られ、導かれています。 その確信を胸に、今日という一段を、感謝と共に上りましょう。



今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

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