2026年2月15日日曜日

「アーメン」という名の、見えない伴走者

 


「アーメン」という名の、見えない伴走者

礼拝堂の扉が閉まり、静寂が呼吸を始める時

オルガンの最後の和音が、高い天井の隅々に吸い込まれていく瞬間。 私たちは、一週間のなかで最も純粋な「沈黙」の中に身を置いています。つい先ほどまで、ここには祈りの声が満ち、賛美の歌が重なり、聖書の言葉が私たちの乾いた魂に染み込んでいました。しかし、礼拝が終わるということは、その「聖なる場所」を去るということです。私たちは再び、それぞれの重荷を肩にかけ直し、教会の重い木扉を押し開けて、仙台の街の、あの日曜日午後の日常へと歩み出します。


 



日常という名の「下り坂」のなかで

私たちは、礼拝堂の中では「神の子」として気高く立つことができます。 けれど、一歩外に出れば、そこには相変わらずの不条理と、解決しない課題が待っています。

明日の月曜日から始まる仕事の段取り、学校での学びや生活、入院している大切な人のこと、あるいは自分のなかで繰り返される「これでいいのか」という自問自答。 礼拝で受けた感動が、街の喧騒に触れた瞬間に、どこか頼りなく、脆いものに感じられてしまう。

「あんなに素晴らしいメッセージを聞いたのに、なぜまたすぐ不安になるのだろう」 そんな自己嫌悪に似た揺らぎを抱えたまま、私たちはバスに乗り、あるいは二十キロを超える長いランニングの道のりへと戻っていきます。聖なる山から、泥臭い「生活の平地」へと下っていく。その過程で、私たちはしばしば、神様を礼拝堂に置き忘れてきたような錯覚に陥ってしまうのです。


 


祝福は、あなたの背中に押される「号砲」

しかし、福音書が語る主の姿は、常に「派遣」のなかにあります。 復活された主は、山の上に留まろうとした弟子たちを、あえて混沌とした街へと送り出されました。礼拝の最後に授けられる祝祷は、「お疲れ様でした」という解散の合図ではありません。それは、**「ここから、あなたの本当の礼拝が始まる」**という、主からの力強い契約の言葉です。

「主は、彼らをベタニアの近辺まで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルキアによる福音書 245051節より)

主は、私たちが成功している時だけではなく、むしろ「無力さ」を抱えて日常に戻っていく、その背中に手を置いて祝福されます。 あなたが明日、実習先で立ち尽くす娘さんを想い、病床の友のために祈り、鈴木君の洗礼のために言葉を整える。その「一つひとつの営み」こそが、教会を出たあとの、生きた礼拝の続きなのです。

私たちが「アーメン」と応えたとき、その言葉は主との「伴走契約」になります。 あなたは一人で月曜日へ向かうのではありません。昇天された主は、目に見えない伴走者として、あなたの日常のあらゆる「死角」に立ち、あなたの一歩を支えておられるのです。


 


新しい一週間へのステップ

礼拝の余韻を、そっと胸のポケットにしまって。 今夜は、明日のためにゆっくりと身体を休めてください。あなたが明日、どんなに小さな仕事に向かう時も、どんなに苦しい坂道を走る時も、主の「祝福の手」はあなたの背中から離れることはありません。 私たちは、遣わされたその場所で、もう一度新しく生まれることができるのです。

今日も、精一杯に生きることです。主のために, 人々のために。

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