散歩の後、ひとりで階段を上って生きます。今日も奇跡の一日が始まります。
奇跡は「当たり前」の顔をしてやってくる
さきほど、愛犬のノアと一緒に散歩へ行ってきました。 二階からトテトテと、自分の足で一段ずつ階段を降りてくるノアの姿を眺めながら、私はふと、胸が熱くなるような感謝を覚えました。「今日も、この子は自分の力で歩ける。今日も、命が許されている」
私たちは、昨日できたことが今日できることを、まるで当然の権利であるかのように錯覚して生きています。朝、目が覚めること。自分の足で立ち上がること。愛する者の名前を呼ぶこと。しかし、これらすべての「当たり前」は、実は精巧に編み上げられた奇跡の連続です。そして、その奇跡にはいつか、人間にも、愛する動物たちにも、等しく「終わりの日」が訪れます。
逆らえない流れを受け入れる「知恵」
「かつては軽やかにできたことが、できなくなる」 その日は、ある時、静かに、しかし確実にやってきます。その時、私たちにとって最も大切なのは、失われた能力を嘆くことではなく、訪れた「新しい時」を素直に受け入れることです。今の自分、今の状態に合わせて、生き方や過ごし方を丁寧に再設計していくこと。そこにこそ、人生の後半戦を美しく生きる知恵があります。
しかし、この「受け入れる」という作業は、言葉で言うほど容易ではありません。自分の有能さや若さに執着し、変化を拒もうとすれば、心に不必要な摩擦が生じます。その摩擦は「いらだち」となり、本人を苦しめるだけでなく、支える家族をも疲弊させてしまいます。
なぜ私たちは、これほどまでに「できなくなること」や「死」を遠ざけようとするのでしょうか。それは、私たちが「自分の命の所有者は自分である」と誤解しているからかもしれません。
創造主を覚える ―― 命の「出所」に立ち返る
聖書の伝道者の書(コヘレトの言葉)には、非常に鋭く、かつ慈しみに満ちた言葉が記されています。「若いうちに、あなたの創造主を覚えよ。悪しき日が来ないうちに。……『何の喜びもない』と言う年月が近づかないうちに。」(コヘレトの言葉 12:1)
「創造主を覚える」とは、自分の命がどこから来て、どこへ帰るのかという「源流」を忘れないことです。私たちは自分で自分を創ったのではありません。命は、神様から一時的に預かっている「ギフト」なのです。命の源である主を覚えて生きるなら、衰えや死は「敗北」ではなく、ギフトを神様の手にお返しする「準備期間」へと変わります。生と死を切り離して考えるのではなく、一つの連続した物語として捉えること。若いうちから、あるいは元気なうちから、「終わり」を見据えて準備をすることは、決して後ろ向きなことではありません。むしろ、終わりを意識するからこそ、今この瞬間の命の輝きが、より一層愛おしく、大切に感じられるようになるのです。
主の腕の中で「降りる」準備を
死の準備をしないことは、現代人が抱える大きな問題の一つです。しかし、そこに「神様の存在」という視点を加えるなら、準備は恐ろしい作業ではなく、愛する方との再会を待つ「身支度」になります。ノアが一段ずつ慎重に階段を降りるように、私たちもまた、人生の階段を一段ずつ、謙虚に降りていく時が来ます。そのとき、自分の力だけで降りようとしなくていいのです。背後には、そして階下には、私たちを支え、受け止めてくださる創造主が待っておられます。
「今日も生きることが許された」 その感謝を胸に、同時に「いつか来るその日」を穏やかに見つめる。 創造主を覚えることは、今を最も自由に、そして豊かに生きるための唯一の鍵なのです。
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