魂の「掃き清め」――光の住まいを整える
階段の隅に溜まった、小さな白い塊
ランニングの後、シャワー、栄養摂取、洗濯の後、欠かさずに行うのはノアちゃんの周りと階段のお掃除です。今朝、ふと階段の隅に溜まった小さな白い毛の塊を眺めながら、私は掃除機を持つ手を止めました。大型犬と共に暮らす喜びは、その愛くるしさと引き換えに、絶え間ない「手入れ」を私たちに求めます。一日でも掃除を怠れば、牧師館の内側の玄関先に犬小屋の周りはあっという間にその存在感で満たされ、心地よさは失われてしまう。
「今日は休もうか」という誘惑は、寒さの戻った朝ほど、甘く囁きかけてくるものです。
内面に降り積もる「目に見えない塵」
私たちは、目に見える汚れには敏感ですが、自分の内側に降り積もる「心の塵」には、案外無頓着でいられるのかもしれません。
聖書が語る「罪」とは、決して法に触れるような大罪だけを指すのではありません。
- 誰かを密かに非難する冷ややかな視線
- 独りよがりの執着や、拭いきれない憎しみ
- 神様の御心から少しずつズレていく、日々の思考
それらは、大型犬の抜け毛のように、放っておけば私たちの魂をあっという間に覆い尽くし、本当の自分を見失わせてしまいます。心が「毛だらけ」の状態では、私たちは自分自身にさえ、良い気分で向き合うことができなくなるのです。
「悔い改め」という名の、毎日の日課
掃除を毎日続けるのは、正直なところ、努力が必要です。 しかし、その努力は結局、誰のためでもなく「自分自身」のためにあります。神様が私たちの内側に臨在されるためには、そこが清潔な場所である必要があります。聖なる方は、私たちの心の汚れを嫌って去るのではなく、私たちがその「塵」に埋もれて声を聞き取れなくなることを悲しまれるのです。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(詩編 51編12節)
毎日の悔い改めは、自分を責めるための儀式ではありません。 それは、主の光をありのままに受け止めるために、窓を拭き、床を掃くような「愛の作業」です。自分の力で自分を完璧にできるわけではなくとも、その「整えよう」とする意志そのものを、主は喜んでくださいます。
派遣:整えられた心で踏み出す一歩
階段を一段ずつ掃除するように、今日、あなたの心にある小さな棘や澱(おり)を、主の前に差し出してみませんか。 「赦してください」という言葉は、私たちの内側に新しい風を通し、聖なる方の居場所を広げてくれます。
清く保たれた心には、世界が与えることのできない静かな平安が宿ります。 その整えられた心で、今日出会う一人ひとりに向き合うとき、あなたの存在そのものが誰かのための「灯」となるはずです。清潔な家が、住む人を安らぎで包むように。
整えられたあなたの魂が、今日という一日を光り輝くものにします。

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