祈りの輪郭をなぞる、百六キロの軌跡
季節が足踏みをする朝に
一度は春の予感に緩んだはずの空気が、今朝はまた、鋭い刃のように研ぎ澄まされていました。 「もうすぐだ」と思った矢先に、再び冬の冷たい風に押し戻される。
そんな自然の気まぐれに、私たちの心もまた、微かなためらいを感じてしまうことがあります。
午前五時。 暗闇と静寂が支配する街へ、私は重い腰を上げて踏み出しました。 身体を包むのは、容赦なく体温を奪おうとする風。 その中で、今日という一日の「二十六キロ」を、私は自らの内なる声と共に刻み始めました。
繰り返される足音の深層
今週、私は合計で百六キロの道を走り抜けました。 この数字を眺めるとき、私の内側には達成感とは別の、もっと静かで、もっと重みのある感情が沈殿しています。
人はなぜ、これほどまでに自分を追い込み、走り続けるのか。 時に私たちは、自分の人生の進みの遅さに苛立ち、思うようにいかない現実に膝を折りたくなります。
大切な人の病、社会の混迷、そして自分自身の内側にある「弱さ」という名の影。 それらの前で、私たちの祈りはしばしば形を失い、霧散してしまいそうになります。
粘り強くあること。それは、鋼のような強さを持つことではありません。 むしろ、折れそうな心を抱えながらも、それでも「もう一歩」を踏み出す不器用な誠実さのことではないでしょうか。
走る距離は、祈りの距離
私にとって、走る距離はそのまま「祈りの距離」でもあります。 舗装された道路を叩くシューズの音は、主への静かな呼びかけ。 冷たい風に抗って吐き出す息は、魂の深いところからの嘆願です。
粘り強く走り続けることが、私にとっては粘り強く祈り続けることそのものなのです。
「強くあれ、勇気を出せ。……わたしはあなたと共にいる。決してあなたを見放さず、見捨てない。」(ヨシュア記 1章5〜9節より)
聖書が語るこの約束は、私たちが絶好調のときに与えられるものではありません。 むしろ、寒さに震え、孤独に押しつぶされそうな「荒れ野」を走る者にこそ、主は隣に並んで囁いてくださいます。
祈りとは、神様を説得することではなく、神様が「共に走っておられる」という事実に、自分の波立つ心を調律していく作業です。百六キロという軌跡は、私が神様に何かを成し遂げた証ではありません。
「これだけの距離、主が私を背負い、共に走ってくださった」という、恵みの記録なのです。
派遣:冷たい風の中をゆくあなたへ
あなたは今、どんな「冷え込み」の中に立ち尽くしているでしょうか。 あるいは、いつ終わるともしれない「祈りの距離」に、疲れ果ててはいないでしょうか。
もし、今日という一歩が重いのなら、無理に走ろうとしなくていい。 ただ、あなたのすぐ隣で、同じ風を受け、同じ歩幅で歩んでおられる主の呼吸を感じてみてください。
粘り強さとは、自分の力で踏ん張ることではなく、主の手にしがみつき続けることです。
今日という一日の二十六キロの先には、必ず新しい朝の光が待っています。 あなたの祈りは、決して虚空に消えることはありません。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。
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