【灯をともす:四旬節の旅路】
第24日:香油の注ぎ ―― 「無駄」に見える愛の価値
1. 聖書の場面:一人の女による献身
「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油を入れた石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。……イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしの体に香油を注いで、あらかじめ葬りの準備をしてくれたのだ。』」
(マルコによる福音書 14章3節、6節、8節)
十字架の死が目前に迫る中、一人の女性が、一生をかけて蓄えたであろう高価な香油を、主イエスに惜しみなく注ぎました。
弟子たちは「もったいない」「無駄だ」「その金で貧しい人を助けられたはずだ」と彼女を責めました。しかし主イエスだけは、彼女の行為を「私のために、できる限りのことをした」と受け止め、その愛を深く称賛されたのです。
私たちの歩みの中にも、他者から見れば「無駄」に映る献身があります。 たとえば、体力の限界に挑むような努力や、何度も被災地に足を運ぶボランティア活動。
「そこまでして何になるのか」「やっても世界は変わらない」と言う人がいるかもしれません。
しかし、あの石膏の壺が割られたとき、部屋中が香りで満たされたように、誰かが心と身体を砕いて捧げた祈りや労苦は、神の御前で尊い香油となって立ち昇ります。
効率や成果がすべてを決める現代社会では、計算を超えた献身はしばしば「無駄」と片付けられます。
けれど、神の国ではその価値はまったく異なるのです。
主イエスは、女性の行為を「葬りの準備」と呼ばれました。 それは、十字架の苦しみを前にした主が、人間から受け取った唯一の「温かな慰め」だったのです。
私たちが祈り続けること、誰かの痛みに寄り添うこと、地道な奉仕を積み重ねること。 それらはすべて、今もどこかで十字架を背負う主イエスの足元に、香油を注ぎ続ける行為です。神は、私たちが注いだ「無駄に見える愛」の一滴一滴を、決して見逃されません。
2026年3月13日(金)
「自分にできることなんて、何の意味もないのではないか」 そんな無力感に押しつぶされそうになっているあなたへ。
あなたの誠実な祈り、誰にも知られない親切、そして「愛ゆえに流した汗」を、主は決して「無駄」とは言われません。
むしろ、「わたしの葬りの準備をしてくれた」と、あなたの手をそっと握りしめてくださいます。
効率を求める世界は、あなたの愛を値踏みするかもしれません。 しかし主は、あなたが壊したその壺――つまり、あなたの心そのものを、天の最も高い場所に置いてくださいます。
今日、あなたが注ぐ一滴の香油(優しさ・祈り・労苦)が、誰かの絶望を癒やす香りに変わることを信じて歩みましょう。
主と共に、新しい一歩を。
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