2026年4月27日月曜日

飲み込んだ言葉のゆくえ

 


飲み込んだ言葉のゆくえ ―― すべてを打ち明けられる「最高の友」

満堂の礼拝堂、それぞれの視線の先で

今日は東北学院の土樋キャンパスでの礼拝でした。伝統ある会堂に足を踏み入れると、そこは溢れんばかりの人々で埋め尽くされていました。壇上から見渡すと、そこには実に多様な「時間」が流れています。真っ直ぐにこちらを見つめ、一言も漏らすまいと耳を傾けている人。手元の何かに意識を奪われ、心ここにあらずといった様子で座っている人。  そして、「聞いている振り」という、大人なら誰もが身につけてしまう器用な仮面を被っている人……。その光景を見ながら、私はふと思いました。この会堂を埋めている何百人という人々の中で、今日、自分の心にある「本当の言葉」を誰かに話せた人は、果たしてどれくらいいるのだろうか、と。


 


「本当の自分」は、どこにいるのか

人生という長い道を行く中で、私たちは「言いたいこと」をすべて口にしながら生きることはできません。大切な人を傷つけないために、あえて本音を飲み込んで我慢する。場を丸く収めるために、心にもないお世辞を言う。時には自分を守るために嘘をつき、時には震える声で真実を語る。

私たちは皆、そんな矛盾の塊のような日々を過ごしています。冷たい言葉を吐いてしまった自分も、優しくありたいと願う自分も、どちらも嘘偽りのない「自分」です。しかし、そんな断片的な姿をつなぎ合わせても、なかなか「本当の自分」という全貌は見えてきません。ふと、寂しさに襲われる夜。あなたは誰に、その心の底にあるドロドロとした本音を打ち明けていますか?家族でしょうか。親友でしょうか。あるいは、長年寄り添ったパートナーでしょうか。どれほど親しい仲であっても、「これを言ったら嫌われるかもしれない」「心配をかけてしまう」という配慮が働き、結局は「一番言いたいこと」だけを、また心の一番深い場所に沈めてしまう……。そんな孤独を、私たちは抱えてはいないでしょうか。




文句なしに聞いてくださる「最高の友」

しかし、そんな私たちには、一人の「最高の友人」がいます。  それは、主イエス・キリストというお方です。聖書の中で、イエス様は私たちを「僕」ではなく「友」と呼びました。 「友」とは、対等であり、隠し事をせず、互いの弱さを知った上で、それでも共にいることを選ぶ関係です。

このお方の前では、私たちは「聞いている振り」をする必要はありません。「聖い人」である必要も、「強い人」である必要もないのです。汚い不平不満も、誰にも言えない恨み言も、情けない自分の姿も、主はすべて「文句なしに」受け止めてくださいます。あなたが言葉にならない溜息を吐くとき、主はその溜息の理由を、あなた以上に知っておられます。主は、あなたの話を聞いて「あきれる」ことも「裁く」こともしません。ただ、あなたの魂が静まるまで、じっと寄り添い、背中をさすってくださる。そんな「本当に良い友人」が、私たちの傍らには常にいてくださるのです。


 


独りじゃない、その確信から

今日、土樋キャンパスの会堂にいた何百人という人々。その一人ひとりが、主の前ではたった一人の「かけがえのない友」です。誰にも言えない言葉で、胸が苦しくなっていませんか?「本当の自分」を見失って、迷子になっていませんか?もしそうなら、今夜は一人の静かな場所で、その「最高の友」にすべてを話してみてください。格好をつける必要はありません。そのお方は、あなたのどんな言葉も決して拒むことはありません。すべてを打ち明け、心の荷物を主の前に下ろしたとき、あなたの魂には再び、新鮮な空気が流れ込み始めます。「自分を分かってくれるお方がいる」――その確信こそが、明日という坂道を上るための、最大のエネルギーになります。

さあ、肩の力を抜いて。  最高の友と共に、また一歩。

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