歩調を合わせる豊かさ ―― 3回のあくびと、愛おしい足取り
日曜日の始まりを告げる、30分弱の小さな巡礼
日曜日の午前二時過ぎ、私はいつものようにノアと共に散歩へと出かけました。 かつてのように何十キロもの距離を駆け巡ることはなくなりましたが、今日も無事に我が家の階段を自らの脚で一段ずつ降り、一緒に外の空気に触れられたことだけで、胸の奥に深い感謝が湧き上がってきます。
今のノアに合わせた散歩の時間は、およそ30分弱。 歩調はそれほど速くはありませんが、大地を一歩一歩踏みしめるその確かな足取りを隣で見つめられる時間は、私にとって何にも代えがたい静かな祈りのひと時です。
「無理をしない」という選択の重み
今日のノアは、少し疲れが溜まっていたのかもしれません。 散歩の途中で、大きなあくびを3回もしていました。そして散歩を終えて家に帰る際、いつもなら一気に上るはずの階段の手前で、コロンと足を止めて一休みしたのです。
その姿を見つめながら、私は急かすことなく、彼が再び立ち上がるのをじっと待ちました。一息ついてから、またゆっくりと上へあがっていく。その一連の動作の愛おしさに、心がじんわりと温かくなります。
「今日も礼拝の日だよ」
日曜日の散歩のときには、私はいつもノアにそう言い聞かせています。それは彼に語りかけると同時に、自分自身の心を神様の前に整えるための、大切なルーチンの言葉でもあります。実は、今日はランニング日ですが、「休む」ことに決めました。無理しないことにしています(?)。
先月、わずか18日間のうちに550キロという凄まじい距離を走り抜いた人間が、「無理せず走ることが大事だ」などと言うのは、少し矛盾しているように聞こえるかもしれませんね。周囲からも「本当にあの人が言っているのか?」と苦笑されてしまうことでしょう。
けれど、ノアが階段の手前で静かに息を整えたように、今の自分の状態を正確に見つめ、あえて「止まる」という選択をすること。それもまた、走り続ける者にとって不可欠な智慧なのだと教えられたのです。
限界を知り、ゆだねる瞬間のなかに
常に全力で疾走し、目標を追い求めることだけが、正しい歩み方とは限りません。自分の弱さや疲れを認め、適切な余白を設けることの中に、神様の深い優しさが隠されています。聖書は、私たちが歩みを緩めるときにも、変わらぬ恵みが注がれていることを約束しています。「あなたがたの走るべき道のりは、主によって確かなものとされる。主はその歩みを喜び、たとえ倒れそうになっても、その手をしっかりと支えられる。」(詩編 37編23-24節 参照)
13歳になったノアが、自分のペースで休みながら階段を上るように。そして私が、先週の103キロの疲れを覚えて今日のランニングを休んだように。
無理をして崩れてしまうのではなく、「ここまで走らせてくれた」というこれまでの恵みに感謝し、静かに次のエネルギーを蓄える。その「無理をしない」という规律の中にこそ、主への深い信頼が宿っているのです。
精一杯に生きる、ということの本当の意味
あなたは今、周囲のペースに遅れまいと、無理をして走り続けてはいませんか? 休むことに罪悪感を覚え、疲れた身体に鞭を打ってはいないでしょうか。
無理をしないことと、怠けることは違います。 本当の「精一杯」とは、自分の限界を無視して暴走することではなく、与えられたその日その日のコンディションを誠実に受け止め、その中で最善を尽くすことです。
- 受容: 階段の手前で立ち止まる自分を、決して責めないこと。
- 対話: 自分の身体と、そして愛する存在の呼吸に耳を澄ませること。
- 感謝: 30分の短い歩みの中にも、満ち溢れている恵みを数え上げること。
整えられた心で、聖なる日を迎える
ノアの3回のあくびは、私に「焦らなくていいんだよ」と教えてくれる、神様からの小さなサインのようでした。今日は大切な礼拝の日。ランニングはお休みですが、私の魂は静かに、そして豊かに満たされています。
無理をせず、しかし与えられた今日の命を、大切な家族と教会員の皆様のために、精一杯心を込めて生きてまいります。
あなたも、今日は少し歩調を緩めて、大切なものと寄り添いながら歩んでみませんか。 息を整えたその先には、必ず新しい光があなたを待っています。
今日も、共に前進です。
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