デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年6月12日金曜日

ランニング再開

 


完璧さを手放す朝——「走りながら癒やされる」という恩寵

鈍い痛みと、重い足取りのスタート

日曜日の朝ランで右足の指に覚えた違和感と痛み。それを受け止め、昨日まで静かに休息をとりました。そして迎えた今日の朝。コンディションは決して「万全」とは言えない状態でした。「走りながら回復していこう」そう心に決めてシューズの紐を結んだものの、

5時半の明るくなった外の世界に踏み出す心には、わずかな迷いと重たさが同居していました。痛みがぶり返すのではないかという恐れ。しかし、その重い足取りを引きずりながらも、とにかく前へ進むことを選びました。するとどうでしょう。アスファルトを踏みしめ、呼吸が深くなっていくうちに、いつの間にか足指の痛みは意識から消え去っていました。雑念は削ぎ落とされ、ただ静かに己と向き合い、深く思索しながら走る恵みの時間がそこにありました。

 


制限が引き出す、未知の力

今朝のランニングには、明確な「終わりの時間」がありました。娘を駅まで送るため、どうしても7時半には帰宅しなければならなかったのです。でも最低20キロは完走したいとの願望。こうした迷いながらのスタートだったにもかかわらず、その時間の制約があったからこそ、自然と足の回転は速まりました。結果として21キロを完走し、ペースはキロ509秒。このスピードで走り切っても過度なしんどさを感じなかった事実に、ふと気づかされました。「ああ、私の体はもう、このランニングの負荷に慣れ、適応しつつあるのだ」と。私たちはしばしば、すべての条件が完璧に整うのを待ってから歩み出そうとします。痛みが完全になくなるまで。時間がたっぷりとれるようになるまで。しかし、神が私たちに備えられた回復力や成長は、往々にして「不完全なまま歩み出した道の途中」で与えられます。誰かのために時間を使うという「愛の制約」が、かえって私たちの内なる力を引き出してくれるのです。

 


日常という名の、尊い礼拝

急いで帰宅してからの時間は、息をつく暇もありません。

  • シャワーを浴びて、すぐに洗濯機を回す(妻が早朝のバイトに出かけたので)
  • SAVASとバナナ、トマトで手早く、しかし確実に命の栄養を摂る
  • そして、娘を車に乗せて駅へ向かう

娘は、実習という非常にエネルギーを注ぎ出す日々を無事に終えて、その疲労を癒すため、今日はいつもの大切な友人6人との食事会があり、終電で帰ってくるとのこと。「心からの癒しと、楽しいひと時となりますように」。そう願いを込めて、車から降りて駅へと向かう背中を見送りました。

 


走り続けるための「今日」

現在、ブログを綴るこの静かな時間の裏で、妻は早朝のアルバイト先で頑張って働いていることでしょう。この後は、洗い上がった洗濯物を干し、部屋の掃除に取り掛かります。午後には年2回の消防設備点検の業者が訪れ、その前には、午後のアルバイトへ向かう妻を八木山まで車で送る任務も待っています。帰りに買い物も。息つく暇もないほど忙しい一日です。しかし、この慌ただしくも愛おしい日常の働きをこなせるのは、今朝、迷いの中で踏み出した一歩があったからです。

 


何よりも、「今日からまたランニングを再開できた」という確かな事実が、私の心を深い感謝で満たしています。条件が揃わなくてもいい。少しの痛みを抱えながらでもいい。私たちは、その傷を抱え、愛する者のために走りながら、癒やされていくのです。

今日も、共に前進です。

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