寂しさの温度が変わる場所──食卓に差し込む光と、家族という恩寵
今日も無事に一日が終わり、家族がみな無事に家へと帰ってきました。 玄関の扉が開く音、ただいまという声。そんな当たり前の日常の響きに、深い感謝を覚える夜です。
キッチンに立ち、二人のために豚の角煮を作りました。 コトコトと鍋が音を立てる傍らで、僕自身はしばらく噛むことを控えているため、自分用に柔らかい食事を別に用意しています。自分の食べるものを自分で作り、自分の身の回りのことを自分でこなす。
「何でも自分で出来る」ということは、ある面ではとても便利で、気楽なことです。誰に気兼ねすることなく、自分のペースで完結できるからです。
しかし、ふと鍋から立ち上る湯気を見つめながら、一つの思いが胸をよぎりました。
「寂しさの温度」はどこから来るのか
一人暮らしのなかで「仕方なく」すべての家事をこなすことと、家族の気配を感じながら同じ家事をこなすこと。 表面的な作業はまったく同じでも、そこには決定的な違いがあります。それは、寂しさの温度です。
以前、教会員で一人暮らしをされている男性が、ふと僕にこうこぼされたことがありました。 「やはり、一人は寂しいものですね」
気楽で自由な生活を好む人ももちろんいます。煩わしさから解放されたいと願う瞬間は、誰にでもあるでしょう。しかし、人間の心の奥底には、どうしても拭いきれない根源的な寂しさが横たわっています。静まり返った部屋で、自分だけのために食事を作り、ただそれを飲み込むだけの時間は、時に凍えるような冷たい温度を持っています。
最初の家族が与えられた理由
聖書を開くと、神様が最初の人間・アダムを創られたとき、こう言われたと記されています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
神様は、アダムにエバというパートナーを与えられました。 つまり、この世界における「最初の家族」は、人間の都合や契約で始まったのではなく、神様ご自身が人間の寂しさを思いやり、与えてくださった恩寵(贈り物)なのです。
だからこそ、聖書には家族に関する掟や、家族の愛憎、そして回復の物語が幾度も幾度も登場します。
- 家族の定義とは何か
- ただ一つの屋根の下で、空間を共有している人々のことではありません。
- 互いに愛し合い、助け合い、弱さを支え合いながら生きる共同体のことです。
自分が食べられない「角煮」を誰かのために煮込むとき、そこには確実に、自分以外の誰かを思いやる「心の温度」が存在しています。その温もりが、私たちの人生から冷たい寂しさを溶かしていくのです。
祈りの結実と、明日への道
家族という共同体の温かさは、血の繋がりに限定されません。
今日、これまでずっと祈り続けてきた教会員の方が、無事に退院されることになりました。その知らせを聞いたとき、心から嬉しく、深い感謝が込み上げてきました。互いを思い、祈り合う教会もまた、神様が与えてくださったもう一つの「家族」の形です。
明日からは、少しコースを変えて、海の方面を目指して走ることにしました。 明日は休養日にあてようかとも考えていますが、自分の体のことは明日になってみないとわかりません。とりあえず、海へ向かうつもりで準備だけはしておきます。
先のことはわからなくても、今日という日を感謝で結び、また新しい朝の光を待ち望む。 支え合う人がいるからこそ、私たちはまた、前を向いて歩き出すことができます。
今日も、共に前進です。
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