そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)
普通の人が金持ちになるには二つの道がある。真面目に働いてコツコツと貯金して長生きする事と欲を捨てる事。どちらが実行しやすいかを考えた場合、どちらも難しいことに気づくのである。それが人間である。今あるものに満足して生きる人は案外少ない。いつももう少し、という欲が生きている限りこの厄介な欲との闘いは続くのである。人間は満足を知らない存在である。常に欲張って生きるからだ。この欲をコントロールできる人は偉い!
ある意味、諦めずにこの欲と闘いながら生きる人も偉いかも・・・・・完全には制圧できないが、しかし欲がもたらす破滅をいつも心に留めながら闘い、抑圧し、それに代わる何かを探し求めることは重要な試みである。もしかしてこの闘いは死ぬまで続くかも・・・・それほど欲は強い力をもって人間を操る悪魔の武器である。
福音書の6分の1が富に関する、お金に関する主イエスの警告であることもその強さを物語っている。
その意味で使徒パウロはイエス・キリストに出会ってから、イエス・キリストによって変えられた人である。つまり、彼は欲をコントロールできる秘訣を身に付けた人である。ここに希望がある。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:12-13)
この世の様々な欲を抑圧できるカギはイエス・キリストに祈り続け、その助けを受けることである。心から祈る人の祈りは必ず成し遂げられる。だからここに希望がある。ハレルヤ!
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