もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私とわたしの家は主に仕えます。(ヨシュア記24章)
昨日は富士山を雨の中で歩き、雨の中を車で走ったけれども、今朝は(午前1時頃)転車で往復約30キロのところに行ってきた。ある教会員のところに夜中に行ってある物をポストに入れて帰って来る一年一回の行事である。これまでは歩いて行ってきたが、今日は自転車で行ってきた。雨具を着て雨の中を走ると汗びっしょり。特に上り坂はきつい。けれども降りずに走り続ける。頑張って走ったために約1時間弱で到着。その後、すぐ帰途へ。帰りも約1時間弱で帰ってきた。自転車は普段使わない筋肉を使うので色々な意味でプラスになる。それで週1回は乗ることにしている。
人は人生の中で何度か大事な決断の時が訪れる。もちろん時や事の流れるままに特別な意味合いを与えず生きることもできるだろう。しかしありきたりの人生ではなく、特別な自分だけの人生を、生き方を望むならば決断して状況を変えることが出来る。上記の聖書でモーセの後継者であるヨシュアはイスラエルの民に決断を要求している。しかし彼はイスラエルのためにだけに要求したのではなく、自ら先に決断し、民自らが選ぶように選択権を与えたのである。これが指導者のもつべき姿である。無理矢理に強いるのではなく、相手に選択権を与える心広い指導者になるのが大事である。さらにもっと大事な事は自分が望んでない選択をしたとしてもそれを尊重する指導者になることである。そういう人を本当の意味で指導者と言えるのである。今はどこの国でも真の指導者が不在の時代である。指導者になるべきでない人が指導者になった場合、一番苦しむのはその指導者の下にいる人々である。ある意味、良い指導者の下で生きることが出来るのは恵みである。なぜなら良い指導者は自分よりはまず国民を、自分の下にいる人々を考えるからである。
今日はタイヤ交換。最後に約1000キロを走ったので感謝。今日も色々と仕事や来客などが予定されている。とにかく悔いのない今日の人生を精一杯に生きることである。
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