すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
人は休息を必要とする。今、背負っている人生の重荷を代わりに背負ってくれることを望んでいる。体も、心もさらに魂も休息を求めている。
そのためにイエス・キリストはお出でになったのである。
けれども人々はそのイエス様を拒否し、迫害し、十字架につけて殺したのである。なぜならその休息の正体が気に入らないからだ。人々は今のまま自分たちの生き方が崩されず、
その上に与えられる休息を望んでいる。しかし聖書はそれは不可能であると言う。土台を変えないと真の休息を得ることが出来ないと言う。罪と欲と憎しみと妬みの上に立てられた土台を完全に取り壊してその上にまったく新しい土台であるイエス・キリストを設けなさいと言う。そのイエス・キリストを信じる信仰の上に真の休息は豊かに与えられるようになる。それでも多くの人は今のままの人生、生き方がかりに不満であるとしても変えようとしない。勇気がないからである。今の土台を壊すと自分が壊されるかもしれない、と思い、それを恐れている。だから信仰を持つことをためらうのである。それで聖書は恐れるな!と365回も繰り返して語っている。
神の言葉である聖書がわたしたちに要求するのは理解ではなく、決断である。しかし人々は聖書の言葉をただ理解するために読んでいる。その目的が食い違うために完全な答えを得られずに通り過ぎる人々が多い。それでさ迷い続ける人生を送る。人生は短い。私たちに与えられた時間はそう長くない。明日、何が起こるかも分からない。生き残る保障もない。それで聖書は毎回、私たちに決断を要求する。
信じるか否か、受け入れるか拒否するか、神の国に入るかお墓に入るか、・・決断するのは本人である。
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