2025年7月25日金曜日

内なる人と外なる人

 


「だから、私たちは落胆しません。たとえ外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新たにされていくのです。」(コリントの信徒への手紙二 4:16

 

生きた生命は、外なる人と内なる人の調和のとれたバランスを必要とします。しかし、内なる人の成長と成熟により大きな関心を持って生きることが、真の知恵というものです。外なる人は時間と共に衰えていく制約がありますが、内なる人はそうではありません。誰が本当に若いのかを決める実際の基準は、外なる人ではなく内なる人の健康状態に関連しています。たとえ活力に満ちた若者でも、内なる人が閉鎖的で健康でないならば、ただの老成した者でしかありません。一方、いくら年をとっても、内なる人が健康で若々しければ、いくらでも若者として生きることができます。年齢の多い少ないは問題ではなく、内なる人がどれほど大きなビジョンと情熱を持っているかが重要なのです。

 

内なる人の成長と成熟は、最高のものではなく、日々新たにされる比較級のものです。イエスも、「私が来たのは、羊に命を与え、そしてその命を豊かにするためです」(ヨハネ 10:10)と言われました。私たちに生命を与えるだけでなく、その命をより豊かにするためにイエスはこの地に来られたのです。信仰の原則は比較級の中に秘められています。神だけが最高であり、他のすべては比較級でなければなりません。私たちに神以外の最高のものがあるなら、それは偶像です。従って、自分が最高になろうとすることは、自らを偶像化する大きな間違いです。

 

最高のものは最も良さそうに見えますが、実際には比較級こそが最高です。最高はもはや上に行くところがないため、その状態が閉ざされた絶望になり得ます。これに対して、比較級はより良い明日へと開かれた希望の扉です。最高は知らず知らずのうちに自己を高慢にしますが、比較級は自分の不完全さを示す謙虚さです。神の前で自分を低くすることができなければ、霊的な空白感を克服することはできません。神の前で懸命に働いても、試練に陥ったり空虚感を味わうのは、自分を高めすぎているからです。時折、芸能人が大麻や薬物に陥る悲劇的な出来事も、過剰な熱気に囲まれて自身を過大評価するためです。すべてが終わった後、孤独に舞台裏に下がったときに直面する耐えがたい空白が、そのような誘惑を引き起こすのです。

 

私たちが比較級の姿勢を持っているなら、自分を飾ったり隠したりする必要はありません。今の純粋な自分の姿で神の前に出ていけばよいのです。今日は私たちの最後の日ではなく、より良い明日のために一歩上がるための足がかりです。私たちは完全を目指していますが、完璧でなければならないという強迫観念にとらわれる必要はありません。自分の不足を感じるほど、謙遜になれるのです。そして、自分を低くするほどに成長が可能になります。神は99歳のアブラムに現れて、「私の前を歩み、完全であれ」(創世記 17:1)とおっしゃいました。これは、年齢に関係なく、常に神の前で完全を目指して成長し続けるべきだということを示しています。

 

新しさの周期は24時間、つまり1日です。本文に出てくる「毎日」はギリシャ語で「ヘメラ(μέρα)」であり、24時間を意味します。1日を過ごす中で新しさを体験することが、神の前で正常に生きる信仰者の姿です。毎日新たにされる道は非常に広く開かれています。問題は、成長や変化を受け入れない閉鎖的な姿勢です。毎日新たにされることが正常な生活であるという明確な意識を持てば、成長や変化は誰にとっても普遍的な日常となり得ます。これこそが、神が私たちに与えてくださる基本的でありながら最も大きな喜びと祝福ではないでしょうか。

 

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