私たちは日々、様々な「美しさ」に出会います。街角で見かける美しい人、心を奪われる夕日、感動を呼ぶ芸術作品…。しかし、その美の基準は時代や文化によって大きく異なります。中世の絵画に描かれた女性の美しさと現代の美的感覚は違いますし、東洋と西洋でも理想像は異なります。では、このような相対的な美しさを超えた、本質的な「美しさ」とは一体何なのでしょうか。
創造主が見て「良し」とされた美しさ
創世記において、神は創造の御業を振り返り、それを「トーブ」(良い)と宣言されました。この「良し」という言葉には、単なる機能的な完璧さを超えた、深い美的価値が込められています。神が見て良しとされた真の美しさの根源は、「いのち」そのものにあります。
どんなに美しい容姿を持つ人でも、息が止まれば冷たい遺体となり、誰もその美しさを語らなくなります。水中で元気に泳ぐ魚は美しいものですが、死んでしまえば腐敗し悪臭を放ちます。つまり、すべての被造物は生きているときに美しく、命が失われると美しさも失われるのです。
霊的ないのちの美しさ
しかし、ここで言う「生きている」とは、単なる生物学的な生命を指すのではありません。より根本的ないのちとは、神との関係において得られる霊的ないのち、永遠のいのちです。
創世記2章7節に「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。ここで「生きもの」と訳されているヘブライ語「ネフェシュ・ハヤ」は、神の息によって生かされた存在を意味します。真のいのちとは、創造主である神との生きた関係の中にあります。
神が創造された本来のいのちを取り戻す道は、私たちの罪の代価を払うために十字架で死に、永遠のいのちのために復活されたイエス・キリストを信じることです。キリストによって新しいいのちを得た私たちは、神の究極の美しさを世界に映し出す、小さな復活の証人なのです。
いのちの二つの表れ
では、この神的ないのちが私たちの内に宿っていることは、どのように見分けることができるでしょうか。それには二つの明確な証拠があります。
1. 成長というしるし
「生きていること」の最も確実な証拠は成長です。生きているものは、どのような環境にあっても成長するように造られています。成長の停止は、いのちの停止を意味します。
イエスは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10章10節)と語られました。豊かないのちの体験は、成長を通してのみ可能です。真のいのちの成長には限界がありません。外見は年を重ねても、内なる人は日々新しくされていきます(コリント後書4章16節)。この成長それ自体が喜びであり、幸福なのです。
2. 愛の香り
いのちのもう一つの証拠は「愛の香り」です。生きているものは、新鮮で心地よい香りを放ちます。しかし死ぬと腐敗し悪臭を放ちます。
使徒パウロは、救われた私たちが「キリストの香り」として、いのちからいのちに至る香りを放つと述べています(コリント後書2章15-16節)。これは、兄弟愛を通して周囲に広がる恵みの香りです(ヨハネ第一3章14節)。この愛の香りは私たち自身から生まれるものではなく、キリストから受けた恵みと祝福を分かち合う自然な流れなのです。
恵みを記憶する力
愛の香りは、神から受けた赦しの大きさを理解することから始まります。マタイ18章の一万タラントの借金を赦された人の譬え話は、この真理を鮮明に描いています。一万タラント(約330トンの金銀に相当)という天文学的な借金の赦しに比べれば、百デナリオン(約4か月分の給料)の赦しは取るに足らないものです。
それでも私たちが赦すことができないのは、受けた恵みを忘れてしまうからです。「記憶が救いを永続させる秘訣」と言われる所以です。神の恵みを覚え続けることで、私たちから自然に愛の香りが漂い始めるのです。
永遠の美しさへの招き
真の美しさとは、神が創造されたいのちの輝きです。それは時代や文化を超越し、成長と愛によって表現される永続的な美しさです。私たちは皆、この神的な美しさを反映する存在として召されています。キリストにあって新しいいのちを得た私たちは、この世界に神の美しさを証しする、生きた芸術作品なのです。
毎日を成長の機会として受け取り、受けた恵みを覚えて愛の香りを放つとき、私たちは神が「見て良し」とされる真の美しさを生きることになるのです。
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