11月30日週報コラム

 


孤独の山を越えて――『孤独のススメ』(Matterhorn)が描く赦しと再生

 

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。(マタイ25:34~)

 


人生には、予期せぬ出会いが、凍てついた心を解き放ち、新しい光をもたらすことがあります。映画『孤独のススメ』(原題:Matterhorn)は、その奇跡のような瞬間を、静かな笑いと深い余韻の中に描き出す物語です。観終わった時、きっとあなたの世界も少し違って見えるでしょう。舞台はオランダの小さな村。主人公フレッドは、妻に先立たれ、息子ヨハンとも絶縁状態。厳格なカルヴァン派の信仰に従い、規則正しい孤独な日々を送っています。隣人との交流を避け、自ら殻を作って生きる彼のもとに、ある日、謎の男テオが現れます。言葉も通じず不法侵入まで試みるテオですが、その純粋さと憎めない人柄に、戸惑いながらもフレッドは少しずつ心を開いていきます。二人は言葉の壁を越え、共有する孤独の痛みの中で奇妙で温かな共同生活を始め、やがて深い絆を育んでいくのです。

 


この物語の冒頭とラストに響くのは、J.S.バッハ《マタイ受難曲》より《Erbarme dich, mein Gott(憐れみたまえ、わが神よ)》BWV 244。ペテロがイエス様を三度否認した後、涙ながらに悔い改める場面で歌われるこのアリアは、罪の自覚と赦しへの切なる願いを旋律に乗せ、フレッドの内面を映し出します。冒頭では宗教的な厳格さと凍りついた心が示され、終盤では赦しと自由な自己表現が描かれる――その構成は、まるで受難から復活への道程のようです。物語が進むにつれ、村人たちの偏見に囲まれながらも、フレッドはテオとの関わりを通して再び他者と向き合い始めます。そして訪れる息子ヨハンとの再会。クラブのステージでヨハンが歌う「This Is My Life」は、父の価値観から解放された彼の人生宣言。その歌声に拍手を送り、「ヨハン!」と叫ぶ瞬間、フレッドは父として、信仰者として、そして一人の人間として新たに生き返ったのです。

 


テオはマタイ25章に登場する「旅人」のような存在です。「わたしは旅人であったのに、あなたたちはわたしを宿に迎えてくれた」(25:35)。当初は律法主義的な厳しさに傾いていたフレッドが、偏見を手放しテオを受け入れる行為は、神が求める隣人愛の実践でもあります。それは、神と隣人への愛という普遍的な真理に立ち返る旅であり、「自己の解放」の物語です。物語の最後、フレッドとテオはマッターホルンを登ります。亡き妻にプロポーズした思い出の場所であり、彼の人生の原点でもあるその山は、過去の痛みと向き合い、赦しと愛によって新たな命へ踏み出す象徴です。《Erbarme dich》が告げた霊的な旅路は、頂での静かな光によって完成します。『孤独のススメ』は私たちに問いかけます。あなたの隣にいる、あるいはこれから出会う「異邦人」に、あなたはどう接するだろうか。この温かな物語は、最も小さき者にこそ神がおられることを、静かに、しかし力強く教えてくれるのです。主イエス・キリストは、すべての人の真の隣人となるために、この世に来られました。 その愛は、ただ近くに寄り添うだけでなく、ご自身のすべてを惜しみなくささげるというかたちで現されました。この待降節の歩みの中で、私たちも静かに問われています。 「あなたは、何をささげることができるだろうか?」 それは、物や時間だけでなく、心の深いところにあるものかもしれません。 主の問いかけに、私たちが誠実に応えることができますように。

コメント