異邦人(たびびと)として歩んだ三十年 ―― 広瀬川の風の中で思うこと
クリスマスが終わった翌日の午後、冷たい空気の中を歩きました。
散歩やランニングの時間は、私にとって大切な思索のひとときです。
まずは、教会の外に飾っていた大きなクリスマスツリーの片付けに来てくださったお二人に、心から感謝を。差し入れにいただいた美味しいパンの中に、私好みのピリ辛味のものを見つけ、有り難くいただきました。こうした小さな触れ合いの中に、主の温かな配慮を感じます。
止まらずに上り続ける、その先に見える景色
大年寺の階段。その半分を走り、残りの半分を急ぎ足で上り切る。時間にしておよそ2分。
ランニングと同じく、散歩の時も私は足を止めません。歩き続け、愛宕神社の階段を上り切ったとき、眼下には新年を迎える準備を整えつつある仙台市街が広がっていました。
飾りが変わっても、季節が巡っても、私はただ、自分に与えられた道を一歩ずつ進むだけです。
「生かされてきた」三十年の歳月
広瀬川の沿岸を歩くと、ハクチョウたちが羽を休めていました。強風に煽られ、川面に波が立つのを見つめながら、ふと自分の人生に思いを馳せました。
この国に来て、三十年になります。 「頑張って生きてきた」という思いもありますが、同時に「いや、生かされてきたのだ」という静かな声が聞こえてくる気がします。そうです、私は主の御手によって、ここまで生かされてきました。そしてたくさんの方々に支えられてきました。
どこにいても「異邦人」であるという答え
不思議なものです。この日本でも、かつて過ごしたドイツでも、スペインの銀の道でも。そして母国である韓国でさえ、私はどこか「異邦人」であることを感じてしまいます。
しかし、それは寂しいことではありません。聖書が語る通り、私たちはこの世における「旅人」なのですから。
私の国籍は、天にあります。 自分がどこへ向かうべきか、そして今、どこに向かって歩いているのか。その答えがはっきりしているからこそ、異邦人としての孤独は、深い平安へと変わります。
「案内役」としての使命
ただ、この旅は一人ではありません。 家族を、そして教会の兄弟姉妹を、同じ「天の故郷」へと導く責任があります。それは、決して簡単なことではありません。思い通りにならないこと、言葉が届かないもどかしさに、祈るしかない夜もあります。それでも、私はあきらめません。
最後の最後まで正しい方向を指し示し、主なる神様が一番喜ばれる姿で、案内役としての任務を全うしたい。それが、私をこの地に遣わされた主への、精一杯の応答だと思うからです。
新しい冬を越えて
妻と二人で、愛犬ノアのことを話しました。昨年の1月、体調を崩して心配したあの日のことを。
「もう少し、一緒に頑張ってほしいな」 そんな願いを込めながら、本格的な冬の到来を感じています。
明日は今日よりも一層寒くなる予報です。外は冷え込んでも、心の中には温かなニュースが溢れるような、そんな年末年始になりますように。
皆さんの歩みの上にも、主の守りがありますようにお祈りしています。
祈りは、ただ願いごとを並べることではありません。
祈りは、神の前に心を開き、自分の限界を認め、
助けを求める、最も人間らしい行為です。
そして、聖書はその祈りに応える神の言葉で満ちています。
もし、今あなたの心に「埋められない溝」があるなら、
まずは静かに、聖書を開いてみてください。 そこには、 あなたの人生を照らす光があり、 あなたの歩みを支える約束があり、
あなたの祈りに応える神の声があるのです。
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