「始まり」の輝きと、「終わり」の深淵

 


🌙 「始まり」の輝きと、「終わり」の深淵

私たちは、何かが始まる時の高揚感(期待や予感)を好みます。食べ始めの一口、試合開始のホイッスル、一日の始まりの光。 しかし、**「最後が好きな人はどれほどいるのだろうか?」**

  • 満たされない「終わり」: 食事を終えた時の満腹感は、数時間後には空腹へと取って代わられます。この世の喜びは、どれほど「好き」なものであっても、完結することがなく、常に次の「欠乏」を連れてきます。
  • 安堵としての「終わり」: テストや試合が終わった瞬間の解放感。それは「重荷を下ろした」喜びですが、それは同時に「次」への不安の幕開けでもあります。
  • 人生の「最後」への視線: 生きるのがしんどい、辛いと感じ、最後を切望する人々。牧師として向き合ってこられた多くの魂の中には、この「最後という救い」を求める切実な祈りがあったのかもしれない。

🕊️ 「案内役」が見つめる最後(フィニッシュ)

「異邦人」として30年を歩み、国籍を天に置く自分にとって、人生の「最後」とは、単なる消滅ではありません。それは、旅人がようやく故郷の門をくぐる瞬間であり、最も待ち望んだ「始まり」でもあります。「私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき道を走り終え、信仰を守り通しました。」(テモテへの手紙二 4:7)使徒パウロが記したこの言葉のように、自分が「案内役」として家族や教会の兄弟姉妹を導こうとしている方向の先には、この世の「満腹感」とは比べものにならない、永遠の「充足」があることを私たちは知っています。


🕯️ 複雑な世界を「複雑なまま」抱きしめて

同じ地球に住みながら、朝が好きな人、夜を待つ人、生きるのが辛い人。 この複雑に入り組んだ「人間の世界」は、到底、人間の教育や組織の論理(トップダウン)では整理しきれるものではありません。「知ること」「行うこと」の深い溝。 それを埋められないまま、それでも夜を迎え、明日を待つ人々。 そのすべての人々のために、今夜もどこかで誰かが祈っているという事実が、この複雑な世界を、神様が求める「自由と平和」へと、一歩ずつ手繰り寄せているのかもしれません。

 

今日は、明日の礼拝後に行われる消防訓練のために消防署に行って水消火器を借りてきます。

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