飾りが消えたあとに残るもの ――「知ること」と「生きること」の溝を埋める
25日が過ぎた瞬間、日本の街並みは驚くべき速さで切り替わります。
昨日まで光り輝いていたクリスマスツリーは姿を消し、代わって新年の門松や飾りが並び始めます。
しかし、飾りが変わるからといって、本質が変わるわけではありません。私は考えます。飾りはどうだっていい。大事なのは、本質を忘れずに生きること。クリスマスの真の意味を知り、それを守り抜くことです。
伝統の「形」と、先祖たちの「精神」
世の中には、家の伝統、学校の伝統、国の伝統と、守るべきとされる「伝統」が溢れています。しかし、伝統を大事にすることとは、形をなぞることではありません。その形を造り上げた先祖たちの「精神」を受け継ぐことです。
今の世の中はどうでしょうか。大事な精神は消え失せ、形だけが骸(むくろ)のように残ってはいないでしょうか。 クリスマスも同じです。きらきら光るツリー、プレゼント、華やかな礼拝……。しかし、なぜ神の御子が家畜小屋で生まれたのか。なぜ父なる神は、そんな卑しい場所での誕生を許されたのか。そしてなぜ、最後には十字架の上での死を選ばれたのか。
それは、私たちがその事実を「ただ知る」ためではありません。知ったならばそれを「信じ」、キリスト者として「生きる」ためなのです。
広がりすぎた「知る」と「行う」の溝(ギャップ)
私たちは、多くのことを「知って」います。 親を大事にすべきこと。子供の将来のために良い教育を授けるべきこと。社会の秩序を守り、正しく生きるべきこと。誰もが知っています。法を破り、親孝行を軽視する人々も、それを「知らない」からそうしているのではありません。
問題は、知ることと行うことのギャップがあまりにも広く、深く、高いことにあります。 そして恐ろしいのは、そのギャップを作ったのは他でもない、自分自身だということです。
最初は誰にでも埋められる小さな溝でした。しかし、それを無視し、放置し続けた結果、だんだんとその溝は広がり、自分の力では決して渡ることのできない深い断崖(ギャップ)へと姿を変えてしまったのです。
人間の限界、そして神様の御手
「努力すればできる」と人は言います。しかし、世の中にはいくら努力してもできないことがたくさんあります。それが、私たち人間の限界です。自分の力ではどうしても埋められない溝を前にしたとき、私たちはどうすればいいのでしょうか。
ここで、自分を超えて働く「神様の御手」が必要となります。自分の限界を素直に認め、謙虚に主なる神様を求めて祈ることです。「祈るだけでいいの?」と疑問に思う人もいるでしょう。しかし、その疑問は、真に祈ったことのない人の言葉です。祈りとは、自分の力で溝を埋めようとする傲慢を捨て、神様の橋渡しを受け入れる勇気ある行為です。人生の溝を埋めたいと願うなら、まず聖書を黙想してください。答えはそこにあります。
飾りが消え、静かになった今夜こそ、私たちは聖書が語る「本質」と向き合う準備ができているのです。
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