今日も無事に散歩を終え、自分の足で階段を上って行きました。この姿に感謝するひと時です。
【灯をともす:四旬節の旅路】第5日:盲人の叫び
―― 「何をしてほしいのか」という問い
2026年2月22日、四旬節の第一日曜日を迎えました。
主イエスがエルサレムでの十字架へ向かって一歩ずつ進まれる道中、その足を引き止める切実な叫びがありました。
今日の黙想は、エリコの道端に座っていた盲人の物語です。
群衆の制止を越える叫び
イエスは立ち止まって、彼を呼んで来させるように命じられた。……イエスが「わたしに何をしてほしいのか」と言われると、盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
(マルコによる福音書 10章49-51節)
主が十字架という人類最大の重荷を背負うために歩まれていたその時、道端で物乞いをしていたバルティマイという盲人が叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」。
周りの人々は「うるさい、邪魔だ」と彼を叱りつけました。しかし、主は立ち止まりました。そして、彼に最も本質的な問いを投げかけられたのです。「わたしに何をしてほしいのか」。
私たちは「何」を求めているのか
現代を生きる私たちは、バルティマイのように「叫び」を抱えています。しかし、その叫びの正体が自分でも分からなくなっていることはないでしょうか。
私たちは日々、情報の波に揉まれ、他人の基準で自分を裁き、「もっと成功したい」「もっと人から認められたい」という声を上げています。しかし、もし主が今、あなたの前に立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。
私たちは案外、自分の「本当の渇き」に無頓着です。表面的な不満や欲望の陰に隠れた、魂の根源的な「癒やし」や「光」を求めることを、諦めてしまってはいないでしょうか。
自分の弱さを「言葉」にする勇気
この物語の教訓は、**「主は、私たちの必死な叫びを決して聞き逃さない」**ということです。 バルティマイは、周囲の冷たい視線や制止を恐れず、自分の「見えない」という弱さをさらけ出し、叫び続けました。そして、主の問いに対して一点の曇りもなく「見えるようになりたい」と答えました。信仰とは、立派な言葉を並べることではありません。自分の内側にある暗闇や欠乏を、正直に主の前に差し出すことです。そのとき、主の十字架の光が、私たちの閉ざされた目を開き、新しい歩み(キリストに従う道)を照らし始めます。
現代人へのメッセージ
週100キロ以上(先週は110キロ)を走るランナーが、体の小さな違和感を見逃さず、マッサージや休息でメンテナンスをするように、私たちの魂もまた、内なる叫びを無視してはいけません。
SNSの通知や日々のタスクに追われ、自分の心の声が「群衆の制止」にかき消されていませんか? この四旬節の日曜日、少しだけスマートフォンを置き、静かな場所で主と向き合ってみてください。主はあなたのために立ち止まっておられます。そして、優しく問うておられます。
「(あなたの名前)さん、わたしに何をしてほしいのですか?」その問いに、飾り気のない本音で答えてみてください。そこから、あなたの「再生」の物語が動き出します。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。
今日、あなたが主に向かって叫びたいことは何でしょうか。あるいは、主に見えるようにしてほしい「心の暗闇」はありますか? 誰にも言えないその叫びを、祈りとして主の御手に預けてみましょう。

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