【灯をともす:四旬節の旅路】第6日:重荷を負う
―― 共に歩まれる「疲れた主」の姿
2026年2月23日、月曜日の朝を迎えました。
週の始まり、私たちの肩には仕事の責任や家庭の雑務、そして人間関係のしがらみといった、重い「リュックサック」がのしかかっているかもしれません。今日の黙想は、主が私たちの弱さをその身に引き受けられた、静かなる愛の物語です。
私たちの病を負い、痛みを担う
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……彼が懲らしめを受けたことで、私たちに平安が与えられ、彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた。」(イザヤ書 53章4-5節)
四旬節の旅路において、イエス様が十字架に向かって歩まれた一歩一歩は、そのまま「私たちの苦しみを自分の中に吸い込んでいく歩み」でもありました。
主は、ただ「神の子」として颯爽と歩まれたのではありません。私たちの流す涙、誰にも言えない後悔、そして「もう歩けない」と座り込むほどの肉体的な疲労までも、ご自分のこととして引き受けられたのです。
「独りで背負わなければならない」という呪縛
現代を生きる私たちは、「自分の責任は自分で取るべきだ」「弱音を吐くのは甘えだ」という強いプレッシャーの中にいます。 週100キロを走るランナーが、どれほど足が痛くてもゴールを目指すように、私たちは心に「炎症」を抱えながらも、平気な顔をして走り続けていないでしょうか。
「助けて」と言えない孤独。自分の弱さを見せたら、今の場所を追われるのではないかという恐怖。その重圧が、私たちの呼吸を浅くし、魂を不協和音の中に閉じ込めてしまいます。
主が「身代わり」になられた理由
キリスト教の教訓は、驚くべき「交換」にあります。 主が十字架の苦しみ(懲らしめ)を引き受けられたのは、私たちが「平安」を受け取るためでした。
主が疲労困憊して倒れられたのは、私たちが「癒やし」の中で再び立ち上がるためです。
私たちが自分の弱さを隠す必要がないのは、主がすでにその弱さを、最も無様な姿で十字架の上にさらけ出してくださったからです。神様の前では、私たちは「強い人」である必要はありません。ただ、「主よ、重いです」と告白するだけで良いのです。
祝日の月曜日。 少しゆっくり起きて、いつもより静かな朝を迎えている方も多いかもしれません。 でも、心のどこかで「また一週間が始まる…」と、ため息をついているあなたへ。
主は今日も、あなたの隣を歩いておられます。 しかも、あなたが抱えている「重荷」と同じものを、共に担いながら。仕事で感じる理不尽さ、
家族のために尽くしても報われないように思える日々、 誰にも言えない疲れや孤独── 主はそれらすべてを見ておられ、
「わたしが知っている。わたしが共に担っている」と、 静かに語りかけてくださっています。
今日は祝日。 だからこそ、少し立ち止まって、深く息を吐いてみませんか? そして、自分の中にある「全部自分で頑張らなきゃ」という思いを、
ほんの少しだけ、主に預けてみてください。
主の打ち傷は、あなたの心の痛みを知っています。 そしてその傷が、あなたの疲れを癒やしへと変える力を持っているのです。今日も、あなたは生きている。
それだけで、すでに大きな恵みです。
主のために、人々のために、 そしてあなた自身のために── 今日という一日を、感謝とともに歩んでいきましょう。
#祝日の朝に #主と共に #癒やしの一日を
今朝、あなたの肩に食い込んでいる「一番重いもの」は何ですか? それを、少しだけ言葉にして主に伝えてみましょう。もしよろしければ、私がその祈りの言葉を整えるお手伝いをいたします。

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