秤の上の虚像、掌の中の真実
私たちは、いつの時代も「数えること」に執着してきた種族です。
かつて古代人にとって、富とは目に見える「支配の質量」でした。広大な土地、うごめく家畜、そして自分に従属する人々の数。ピラミッドや神殿といった巨大な石の集積は、死をも克服しようとする権力の誇示であり、金持ちとは「神に代わって地上を統治する者」という定義に近いものでした。
中世へと時代が移ると、富の定義には「秩序と霊性」が混じり合います。領主にとっての富は、土地という神からの信託を守る義務であり、商人にとっては「魂の救い」を買うための免罪符の原資でもありました。清貧を尊びながらも、大聖堂を黄金で飾るという矛盾の中に、当時の人々の葛藤が見て取れます。
そして近代、富は「数値化された可能性」へと姿を変えました。資本という名のリキッドなエネルギーは、個人の身分を解体し、何にでもなれるという自由を約束しましたが、同時に私たちを「もっと、もっと」という終わりのない競争の歯車へと組み込みました。
つまり、時代がどれほど移ろい、富の形が牛から金貨へ、そして画面上の電子データへと変わったとしても、それを取り合う人間の「欲」の深さは、驚くほど変わっていません。
ドストエフスキーがその著作で繰り返し描いたように、人間は「自分が世界の中心でありたい」という病を抱えています。一千万持てば一億を欲し、一億持てば世界を欲する。この渇きは、どれほど黄金を注ぎ込んでも埋まることのない、魂の底に開いた「空洞」のようなものです。
富を持つことで、自分の「無力さ」や「死」という現実から目を逸らそうとする。その姿は、古代の王も、中世の貴族も、現代の投資家も、悲しいほどに一致しています。欲にまみれた姿とは、実は「自分が神ではない」という事実を認められない、人間の根源的な不安の裏返しなのかもしれません。
では、時代を超えて変わらない「本当の金持ち」とは、一体どのような存在を指すのでしょうか。
聖書は、自分の倉をいっぱいにすることに腐心した金持ちを戒め、こう問いかけます。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りである。」(ルカによる福音書
12:21)
本当の金持ちとは、**「何も失うことを恐れない者」**です。 それは、所有(Having)の多さではなく、存在(Being)の豊かさに根ざしている人を指します。
遠藤周作が、泥にまみれた沈黙の中に「寄り添う愛」を見出したように、真の豊かさとは、自分が神様に愛され、生かされているという圧倒的な充足感の中にあります。自分が持っているものは、すべて神様からの「預かりもの」であると自覚する。そう気づいた瞬間、人は執着という鎖から解き放たれます。
隣人とパンを分かち合う余白があり、誰かのために涙を流す時間があり、そして何より、自分に与えられた「今日」という時間を、感謝をもって使い切ることができる人。そのような人こそ、通帳の数字に関わらず、天国を今ここで生きている「真の富豪」なのです。
私たちは、砂で作った城のような富を積み上げることに、あまりにも多くの時間を費やしてしまいます。しかし、人生という散歩道で、愛犬の足音を愛おしみ、一段ずつ階段を降りるその瞬間を感謝できるなら、あなたはすでに世界で最も豊かな一人です。創造主である神様を覚え、その御手の中に自分の生死を委ねること。その平安こそが、金貨では決して買えない、永遠に朽ちることのない財産です。
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