2026年2月19日木曜日

「正解」という名の砂漠を歩く人々へ

 


「正解」という名の砂漠を歩く人々へ

かつて、人生の岐路に立つとき、人は空を見上げました。あるいは、物語や伝統という、自分よりも遥かに大きなものに身を委ねました。そこには「家」や「信仰」という確かなレールがあり、良くも悪くも、個人が「一からすべてを決定する」という孤独な作業は免除されていたのです。

しかし、18世紀の啓蒙主義が神を玉座から引きずり下ろし、人間に「自由」という名の全権を与えたとき、私たちは同時に「無限の責任」という重荷を背負うことになりました。サルトルが喝破した通り、人間は「自由という刑」に処されたのです。

20世紀の消費社会、そして21世紀のアルゴリズム社会は、その耐えがたい「選ぶ苦しみ」を商機に変えました。スマホのプラン、保険、結婚相手、そして人生の幕引きまでも。私たちは今、失敗への恐怖から逃れるために、自分の意志を「外部の脳」や「代行業者」にアウトソーシングしています。自ら選ぶことをやめたとき、私たちは一時の安心を得ますが、同時に「自分の人生の手触り」を失っていくのです。


今の私たちは、まるで霧深い海の上で、自分ではなく他人のコンパスばかりを覗き込んでいる船乗りのようです。「損をしたくない」「最短距離で正解に辿り着きたい」 その焦燥感が、私たちから「迷う自由」を奪っています。 自分で決めて失敗することを、この社会は「自己責任」という冷たい言葉で切り捨てようとするからです。だから私たちは、誰かに決めてほしいと願う。 誰かのせいにできる道を探してしまう。 その結果、自分の人生であるはずなのに、どこか「他人の物語」をなぞっているような、奇妙な虚しさが心に澱(よど)みとして溜まっていくのです。

この「選べない」という痛みは、現代人が抱える最も深い孤独の叫びかもしれません。


 


聖書の中に、一つの奇妙な風景があります。 アブラハムという老人が、神から「あなたの生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へ行きなさい」と告げられた場面です。

神は、目的地の住所も、移動のプランも、そこに何があるかも教えませんでした。現代の代行業者なら「無責任だ」と一蹴するような不透明なガイドです。しかし、アブラハムは「行き先を知らないまま」旅立ちました。

ここで重要なのは、彼が「正解」を選んだのではなく、「呼びかけてくる存在」を信じて、最初の一歩を自ら踏み出したという事実です。

聖書の示す解決道とは、完璧な選択肢を見つけることではありません。 **「もし間違えたとしても、その失敗さえも用いて、新しい道を拓いてくださる方が共にいる」**という信頼に立ち返ることです。私たちが一人で決められないのは、背負いきれない責任を一人で抱え込もうとしているからです。しかし、キリスト教の神学が提示する「自由」とは、孤独な決定ではなく、神との「対話」の中にあるものです。「主よ、どちらへ行くべきでしょうか」と問い、震える足で一歩を踏み出す。その決定の重みを、主が半分背負ってくださる。その確信があるとき、私たちは初めて代行業者を介さずに、自分の人生の舵を握り直すことができるのです。


 


「正解」を求めて立ち止まる必要はありません。 あなたが祈りの中で選び、踏み出したその一歩を、主は決して無駄にはされません。完璧なプランよりも、不器用なあなたの意志を、神様は待っておられます。 たとえその道が遠回りであっても、主が共におられるなら、そこはもう「目的地」への途上なのです。今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


次の一歩として、今日あなたが直面している「迷い」を、一つだけ神様の前に置いてみませんか? 解決を急ぐのではなく、「主よ、あなたならどうされますか」と静かに問いかける時間を5分だけ持ってみる。その沈黙をデザインするお手伝いも、私にできることの一つです。

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