2026年2月6日金曜日

移ろう心、一段の祈り ——

 


移ろう心、一段の祈り —— 「感情の階段」を上りきるために

喉を焼く吐息と、二百五十五段の沈黙

今朝は大年寺山の石段に向き合いました。 一段、また一段。重くなる脚に鞭打ち、太ももの筋肉が熱く焼けるのを感じながら、私は己の呼吸の音だけを聞いています。

階段の頂上から見下ろす仙台の街は、まだ薄暗い冬の影を色濃く残していました。 トレーニングを終え、汗が冷え始める頃にゆっくりと歩き出す。 この「動」から「静」への移ろいの中で、私の心は一つの厄介な問いに捕らわれていました。それは、私たちの内側で絶えず形を変え続ける「感情」という生き物についてです。


 


一分後の自分という、見知らぬ他人

人間の弱点は、その感情のあまりの移ろいやすさにあります。 一分前には「すべては恵みだ」と感謝に震えていた心が、次の瞬間には、誰かの一言やニュースの一報で、どす黒い不安や苛立ちに染まってしまう。私たちは、自分という船の舵を握っているつもりでいて、実は波風に翻弄される小舟のような存在なのかもしれません。 この「揺れ」をコントロールできる人、どんな場面でも冷静に、なおかつ慈しみを持って対応できる人を、私たちは「強い人」と呼びます。

けれど、私たちは自力でその嵐を鎮めることができるのでしょうか。 世界で続く争いや、身近な大切な人たちの病の報せ。そして今、実習の現場で必死に戦っている娘の無事を祈る父としての心。 それらを抱えながら、波立たない水面のような心を持ち続けることは、至難の業です。


 


秘訣は、自分の「外」に錨を下ろすこと

感情をコントロールする秘訣。 それは、感情を「押し殺す」ことでも「無視する」ことでもありません。 それは、揺れ動く自分の中に答えを求めるのをやめ、「変わることのない一点」に、心の錨を下ろすことにあります。

「あなたがたに平和を残していく。わたしの平和を与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネによる福音書 1427節)

主が与えてくださる平和は、周囲の状況が良いから得られる「条件付きの安らぎ」ではありません。 たとえ心が一分ごとに揺れ動こうとも、その深層には決して揺らぐことのない「神の同在」という岩盤がある。そう確信することから、本当の強さが生まれます。

大年寺の階段を一歩ずつ上るように、私たちは感情の波を「一段ずつ」主の御前に差し出していくしかありません。 「今、私は不安です」「今、私は揺れています」。 その弱さを正直に差し出すとき、皮肉にも私たちは、自分を支配していた感情の手から解放され、静かな冷静さを取り戻していくのです。


 


派遣:夕暮れの食卓を待つあなたへ

実習に向かった娘が、今日も無事にその務めを終え、安らいだ顔で帰ってくることを。 そして、病の中で夜を過ごす兄弟たちの心に、静かな勇気が灯ることを。 私は歩きながら、祈り、願い続けています。もし今日、あなたの心が予期せぬ風に乱されたなら、どうか深く呼吸をし、一分前でも一分後でもない、「永遠」に繋がる主の御名を呼んでみてください。 コントロールできない自分を責める必要はありません。 その揺れごと、大きな御手の中に身を委ねればよいのです。

階段を上りきった先には、必ず新しい景色が待っています。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

 

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