満たされることの空虚、愛するという贈りもの
喉を潤す一杯と、消えない渇き
朝ランを終え、栄養を補ってから机に向かう前に淹れる一杯のコーヒー。その香ばしい
香りが部屋いっぱいに広がると、凍てつく空気の中を三十一キロ走り抜けた身体に、よ
うやく温かさが戻ってきます。乾ききった喉を潤す最初の一口は、確かな「満足」を連
れてきてくれるものです。けれど、その満足は長くはとどまりません。カップの底が見
える頃には、指の間を静かにすり抜けていくように消えていきます。
私たちは皆、何かが手に入れば、あるいは目標を達成すれば、人生というパズルが完成
し、「幸せ」になれると信じて疑いません。 志望校への合格、病からの快復、あるいは
四百キロという走行距離の達成。 それらは確かに私たちを喜ばせますが、その喜びの賞
味期限は、驚くほど短いものです。
「自我」という名の厚いフィルター
私たちはなぜ、これほどまでに「本当の幸せ」を見失ってしまうのでしょうか。 人生の
目的が「幸せに生きること」であるならば、なぜその目的地は、近づくほどに遠ざかる
蜃気楼のようになびくのでしょうか。その答えは、私たちの内側に根を張る「自我欲」
という厚いフィルターにあります。
「私が」満足したい、「私が」認められたい、「私の」不安を取り除きたい……。 この
「私」という視点が強まれば強まるほど、私たちの視界は狭まり、実はすぐ傍らにある
はずの幸福の光を遮ってしまうのです。 手に入れた瞬間に「もっと、もっと」と心が騒
ぎ出すのは、自我という器には底がなく、どれほど物質や成功を注ぎ込んでも満たされ
ることがないからです。
幸福は、横に手を伸ばしたときに届く
聖書は、私たちが自分自身の中に閉じこもっている限り、決して見つけられない「幸せ
の定義」を提示しています。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。……
隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書 22章37〜39節)
幸せとは、自分の欲望を完結させることではありません。 それは、自分を超えた存在で
ある「主」を見上げ、そして自分の横にいる「隣人」へと手を伸ばす。その関係性の結
び目の中に、神様がそっと置いてくださる「プレゼント」なのです。
娘のために心を込めて夕食を作る。手術を控えた長老のために祈りを積む。 そこに「見
返り」や「自分の利」を求めない愛があるとき、私たちの心からは「自我欲」のトゲが
抜け落ち、代わりに穏やかな平安が流れ込みます。 幸せとは、追いかけるものではな
く、誰かを愛した後に、気づけばそこに「残っている」ものなのかもしれません。
派遣:愛の重なりの中で
あなたが今日、追い求めているものは何でしょうか。 もし、手に入れても満たされない
虚しさを感じているのなら、少しだけ視線を「自分」から外へ向けてみてください。
誰かのために淹れるお茶、誰かのために捧げる短い祈り、誰かの歩みを支える一言。 そ
の小さなしぐさの中に、世界が与えることのできない「本当の幸せ」が隠されていま
す。 主は、あなたが自分を愛するように誰かを愛するとき、あなたの心の器を、天から
の喜びで溢れさせてくださいます。
階段を上り、道を走り続けるその理由が、自分の満足のためではなく、主と隣人のため
であるとき、私たちの人生は初めて、色鮮やかな輝きを放ち始めます。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

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