聖書:ヨシュア記3章1~17節
1. 導入:聖アウグスティヌスは、かつて自らの回心についてこう語りました。「もし奇跡がなかったら、私はキリスト教徒にはならなかっただろう」。また文豪ゲーテは、その代表作『ファウスト』の中で、「奇跡は信仰という愛おしい子どもである」と述べています。私たちはしばしば、奇跡を「棚からぼたもち」のような偶然の幸運だと思いがちです。しかし聖書が語る奇跡は違います。それは、神様の愛の招きに対して、人間が信頼をもって一歩を踏み出すときに産み落とされる「命のしるし」なのです。今日、私たちは40年にわたる荒野の旅を終え、約束の地カナンを目前にしたイスラエルの民と共に、溢れんばかりのヨルダン川の前に立ってみましょう。そこには、2026年という「予測不能な時代」を生き抜くための、驚くべき神様のプログラムが隠されています。
2. 「シティム」からの出発:過去の清算と新しい決断
ヨシュア記3章1節は、「ヨシュアはシティムを出発し」という言葉から始まります。実は、この「シティム」という場所には苦い歴史がありました。かつてイスラエルの民が偶像崇拝に耽り、
罪に落ちた場所、いわば「失敗と後悔の象徴」だったのです。
- 神学的な深み:奇跡は、過去の失敗の中に留まっている場所では起きません。神様はヨシュアを通して、まず「シティムを離れなさい」と命じられました。過去の罪、後悔、あるいは「どうせ無理だ」という否定的なセルフイメージ。それらを置いて、一歩を踏み出すことから奇跡のプロセスは始まります。
- 3日間の静止:彼らは川岸に着いてから3日間、そこで宿泊しました(3:2)。なぜすぐ渡らなかったのでしょうか。これは、私たちの心にある「焦り」を「神への集中」へと熟成させる期間でした。イエス様が墓の中で三日間過ごされたように、新しい命が生まれる前には必ず「静かな待機」が必要なのです。
3. 「刈り入れの時」という逆説:神様が選ばれた「最悪のタイミング」
15節には、非常に重要な聖書学的な注釈があります。「ヨルダン川は刈り入れの期間中、岸いっぱいに溢れていた」。
- 驚きの地理的背景:ヨルダン川の源流は、ヘルモン山の雪解け水です。乾季には歩いて渡れるほどの川が、刈り入れの時期(春)には、雪解け水が濁流となって流れ込み、幅は1キロ以上に広がり、深さも増して、人間が泳いで渡ることなど到底不可能な「死の川」と化します。
- 神様の意図: 神様は、なぜ一年で最も渡りやすい時期ではなく、最も「不可能」な時期を選ばれたのでしょうか。それは、**「人間の工夫や努力が完全にゼロになる瞬間」**を待っておられたからです。私たちの人生の行き止まり、不条理な壁、それこそが神様が栄光を現すための「最高のステージ」なのです。
4. 2000キュビトの「敬意」:神を追い越さない訓練
ヨシュアは、神の契約の箱と民との間に「約2000キュビト(約900メートル)」の距離を置くよう指示しました(3:4)。
- 聖書学的な視点: 聖書学者ドナルド・キャンベルは、これを「全イスラエルの民が見えるための距離」と説明します。近すぎると、先頭の数人しか神の箱が見えません。しかし、900メートル離れれば、後ろに続く数万人の民全員が、先導する神の箱を見る事ができます。
- 現代への適用: 「神様を愛している」と言う私たちは、しばしば熱心のあまり神様を追い越してしまいます。自分の計画を先に立て、後から神様に「祝福してください」と頼む。それは神様に従っているのではなく、神様を自分の計画に利用しているに過ぎません。2000キュビトの距離を保つとは、**「神様が動かれるまで、私も動かない」**という徹底的な依存の姿勢なのです。
5. 奇跡のトリガー:「濡れた足」が道を作る
最も劇的な瞬間は15節にあります。「箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ったとき」、上流からの
水がせき止められました。
- 紅海との決定的な違い:40年前、モーセが紅海を渡った時は、モーセが杖をかざすと「まず海が分かれ」、道ができてから民が歩き出しました。しかし、ヨルダン川では違いました。**「祭司の足が濁流に触れた瞬間」**に奇跡が始まったのです。
- ヘブライ語「タバル」の深み: ここで「浸る」と訳されているヘブライ語「タバル」は、ただ軽く触れるのではなく「沈める、身を投じる」という意味を含みます。水が止まるのを確認してから入るのではなく、濁流の中に「信仰をもって身を投げ出す」その勇気が、物理的な法則を打ち破るスイッチとなりました。
- 私達への問いかけ: 皆さんの人生のヨルダン川の前で、皆さんは「道ができたら歩きます」と言っていませんか?
主は言われます。「あなたが足を濡らすとき、私が道を作る」と。
6. 「アダムの町」まで遡る癒やし:根源的な解決
16節には、水が「はるか遠くの、ツァレタンの隣にあるアダムという町で」止まったと記されています。
- 驚きのメッセージ: 「アダム」という地名が出てくるのは偶然ではありません。人類の罪の源である「アダム」まで遡って、神様が流れを止めてくださったという霊的なメタファー(比喩)でもあります。
- 神様の完全な仕事: 神様の奇跡は、目の前の問題を解決するだけでなく、その「原因の源」まで遡って癒やしてくださいます。私たちが一歩を踏み出すとき、神様は私たちが気づかない「はるか遠くの源流」で、すでに御業を始めておられるのです。
7. 結び:自分を「聖別」せよ
最後に、ヨシュアが民に求めたのは軍事訓練ではなく「聖別(自身を聖くすること)」でした。
ヘブライ語で聖別「ヒトゥカデシュ」は、自分を神様のために「取り分ける」という意味の再帰動詞です。「明日、神様が驚くべきことをなさるから、今日、自分を整えなさい」奇跡は神様の領域です。私たちができるのは、心の模様替えをすること。嫉妬や批判、不満という汚れを捨て、心を神様に向けてセットすること。これこそが、私たちが奇跡を経験するための姿です。私たちが今日、謙虚に自分を聖別し、主の箱を仰ぎ見ながら、勇気をもって「最初の一歩」を水に浸すとき、必ず乾いた地が現れます。「明日」の奇跡を信じて、共に「今日」という聖なる一歩を踏み出しましょう!
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