砂漠の朝をゆく、最初の一歩 ―― 「月曜日」という名の恵み
心の重さを計る天秤
「月曜日」という言葉が、あなたの胸にどんな響きを連れてくるでしょうか。
日曜日の礼拝を終え、聖なる余韻に浸る間もなく、私たちは再び「日常」という名の砂漠へと派遣されます。昨日まで見上げていた天の光は遠のき、目の前には、溜まった仕事、未解決の人間関係、そして自分自身の内側にある「倦怠感」という重い荷物が積み上がっています。
新しい一週間を前にして、ふと「また同じことの繰り返しではないか」と、足がすくむ朝があるかもしれません。
脱ぎ捨てられない「昨日」の影
私たちは、新しい週を今朝の雪のように「真っ白な地図」として始めたいと願います。 けれど実際には、先週から引きずっている失敗の苦さや、拭いきれない後悔、あるいは大切な人の病への不安といった「昨日の影」を背負ったまま、月曜日のスタートラインに立っています。
世界では争いが止まず、ニュースは私たちの心を削り、自分一人が何をしたところで何も変わらないのではないかという無力感に襲われます。
そんな時、私たちは「強く、前向きに」という言葉にさえ、疲れを感じてしまうのです。
立ち上がるための「赦し」というロジック
聖書が語る「再出発」は、私たちの気合や根性から始まるものではありません。 それは、主の「赦し」という深い静寂から始まります。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新しくなる。」(哀歌
3章22〜23節より)
神様が備えられた月曜日の朝とは、単なるカレンダーの区切りではありません。 それは、昨日の失敗も、先週の汚れも、すべてを主の慈しみという海に沈め、「もう一度、新しく始めてよい」という法的な赦しが宣言される時です。
エリシャがエリヤの背中を追い、ヨルダン川を叩いて道を開いたように、私たちもまた、自分一人の力ではなく「主の霊」を携えて週の初めに立ちます。
大切なのは、一気に一週間分を走り切ろうとすることではありません。 今、この瞬間、主の御手の中で「最初の一歩」を、自分自身を赦しながら踏み出すことです。
巡礼者の歩みを
今日、あなたが手にするペン、あなたが向き合う誰かの瞳、あなたが踏みしめるアスファルト。 それらはすべて、主があなたのために新しく用意された「再出発の現場」です。
重荷を下ろす必要はありません。主が共に担ってくださるからです。 完璧な自分を演じる必要もありません。主があなたの弱さを知っておられるからです。
ただ、朝ごとに新しくなる慈しみを一息吸い込んで、今日という一段を上り始めましょう。
今日も、精一杯に生きることです。主のために, 人々のために。

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