120キロの軌跡と、小さな墓前で見つけた「命の収穫」
足裏に響く鼓動、静寂に沈む祈り
今朝、25キロを走り終えました。 一週間で刻んだ距離は、合わせて120キロ。 アスファルトを蹴る足裏の衝撃、肺を満たす冷たい空気、そして自分の身体から溢れ出す汗の熱。走っている間、私は「生きている」という生々しい躍動の中にいます。
しかし、走り終えてシャワーを浴び、牧師の服に身を包んで向かった先は、それとは対極にある場所——「墓前」でした。
今日は、ある姉妹の納骨式を執り行いました。 参列者は、ご遺族と私だけ。 大きな式典のような華やかさはありません。ただ、春の柔らかな風が吹き抜ける霊園で、数人だけの静かな時間が流れていました。
「止まること」で見えてくる豊かさ
120キロという距離を走る時、私たちの目はどうしても「先」へ、「ゴール」へと向きます。一歩でも速く、一歩でも遠くへ。それは前進の喜びですが、同時に多くの景色を通り過ぎてしまうことでもあります。けれど、納骨式のあの数十分間、時間は完全に止まったかのようでした。
ご遺族と共に、故人が歩まれた歳月を一つひとつ手繰り寄せ、その人生に込められた「思い」を摘み取っていくひと時。それは、まるで秋の果実を丁寧に収穫するような、豊かで、濃密な時間でした。激しく走っている時には気づかなかった、**「立ち止まらなければ見えない命の景色」**が、そこにはありました。
魂の重さと、復活の光
聖書には、**「わたしたちの苦労は主にあって決して無駄にならない」**という約束があります。 80代、90代と、長く、時に険しい地上の旅路を走り抜いた故人の歩み。その一歩一歩が、決して「無に帰す」のではなく、神様の大きな器の中に大切に蓄えられている。納骨式で墓の石蓋を閉める時、それは「終わり」ではなく、地上の仮住まいを返却し、天の本国へと完全に「入居」したことの証しなのだと、改めて思わされました。
故人が残された信仰の言葉、家族への愛、小さな微笑み。 それらは、遺された者たちの心に蒔かれた「種」となり、これからまた新しい命を芽吹かせていくのでしょう。
重荷を下ろして、また一歩
私たちは皆、それぞれの距離を走っているランナーです。 ある時は100キロを超えるような激しい走りを求められ、ある時は愛する人の死という、動かない現実の前に立ち止まることを余儀なくされます。
でも、どんなに道が険しくても、あるいは道が途切れたように見えても、私たちの歩みを最後の一歩まで支え、ゴールで抱きとめてくださる方がいます。
120キロを走った私の脚には、確かに心地よい疲労が残っています。 けれど、今日、墓前で故人の豊かな「命の収穫」に立ち会った私の心は、走り出す前よりもずっと軽やかです。大切なものは、手放すことで、もっと大きな希望へと変わる。
それを教えてくれた、静かな土曜日の昼下がりでした。
さあ、明日はいよいよ主日、そしてイースターへと続く新しい週が始まります。 身体の疲れも、心に残る寂しさも、すべて主の御手に委ねて。
今日も、前進です。
0 件のコメント:
コメントを投稿