春の色が、届かないあなたへ ―― 止まった時間の中で、主の吐息を聴く
モノクロームの春の中に、あなたはいますか?
窓の外を見上げれば、透き通るような青空が広がり、若葉が眩しいほどの光を跳ね返しています。桜の淡いピンクから、命のエネルギーを象徴するような赤や緑へ。街は今、溢れんばかりの色と香りに包まれています。
今朝、私はその光の中を二十一キロ走り抜けました。けれど、走りながらふと思うのです。 この鮮やかな世界が、もしも「自分とは無関係な別世界の出来事」に見えてしまっているとしたら、その心はどれほど孤独だろうか、と。
風の匂いを感じられず、美味しいはずの食事が砂を噛むような味しかせず、ただ、この息苦しい日常を終わらせたい……。そんな深い霧の中に立ち尽くしている方は、今、この言葉をどのような思いで見つめておられるでしょうか。
「一歩」の重さを、誰が計れるでしょうか
今朝のランニング中、愛宕大橋の上で、私は一人の年配の方の背中を追い越しました。 おそらく八十代後半。登山用のスティックを二本、魔法の杖のように大切に突きながら、急な坂道を一歩、また一歩と、祈るように進んでおられました。
その小さく、震える背中を見た時、私は自分自身を恥じました。 二十一キロを走る私の脚力よりも、あの坂道を一段上るその方の「一歩」に込められた勇気の方が、どれほど重く、尊いものだったか。
あなたは今、「何もできない自分」を責めてはいませんか? 周囲が春を謳歌する中で、布団から起き上がることさえできない自分を、「失格だ」と思い詰めてはいませんか?
けれど、考えてみてください。 深い闇の淵で、それでも今日という日を今日まで「生きてきた」こと。その一秒一秒の重さは、フルマラソンを完走する以上の、凄まじい魂の闘いではないでしょうか。
ゆだねることは、あきらめることではありません
聖書は、疲れ果て、道を見失った魂にこう語りかけます。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。」(詩編 37編 5節)
「ゆだねる」という言葉は、自らハンドルを放す「あきらめ」のように聞こえるかもしれません。けれど、そうではないのです。それは、嵐の中で荒れ狂う海を自分の腕で漕ぐのをやめ、あなたを包む大きな船に、その身を横たえるという決断です。
心が曇り、死の影を歩んでいる時、私たちは「自分の力で晴らさなければ」と焦ります。 しかし、空を覆う厚い雲の上には、常に変わらない太陽が輝いています。あなたがそれを感じられなくても、光はそこにあり、あなたを照らすことを決してやめてはいません。
「死にたい」と感じるほどの痛みは、あなたがそれほどまでに「一生懸命に生きようとしてきた」証拠です。神様は、あなたのその涙の一滴一滴を、革袋に蓄えてくださっています。
あなたが歩けないなら、主があなたを背負われます。あなたが食べられないなら、主がその命を支えられます。信仰とは、何かが「できる」ことではなく、何もできない自分を「愛されている」と受け入れることなのです。
呼吸をしている、それだけで「完走」です
今朝、私は二十一キロを走り終え、今週の累計は百十キロとなりました。 けれど、今日の私にとっての勝利は、距離を稼いだことではありません。あの橋の上で、懸命に一歩を踏み出す背中に、主の深い慈しみを見たことです。
今、苦しみの中にいるあなた。そして、その傍らで祈り、共に擦り切れているご家族の皆様。 無理に笑う必要はありません。春の色を感じようと焦る必要もありません。
ただ、今日、あなたが呼吸をしていること。 今日、あなたがここに存在していること。 それだけで、あなたは今日のレースを立派に走り抜いたのです。
夜がどれほど長くても、明けない夜はありません。 たとえ今はモノクロームの世界にいても、いつかまた、不意に風の匂いが鼻先をかすめる日が必ず来ます。
主はあなたの手を離しません。
さあ、今日はもう、頑張るのをやめて、静かに目を閉じてみませんか。
その鼓動の中に、あなたを愛してやまない主の吐息を聴いてください。
今日、一歩を踏み出してみることです。

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