幻のユートピアと、足元から始まる「本当の平和」
朝の静寂と、走りながらの思索
23時起床。ノアとの散歩に行ってきました。散歩中、考えたことは、
「もし、この世に事件と事故がなく、国々との対立もない、まったく平和でいられるならば……」
メディア関係の企業、武器を作る会社、軍人といった数多い職業がなくなるだろう。 この静寂の中を歩きながら、その問いをさらに深めてみました。もし、そんなユートピアが訪れたなら、世界はどうなるのか。そのほかには、どんなものが消えていくのでしょうか。
悲劇を前提とした社会と、幻のユートピア
考えを進めていくと、私たちは一つの重い事実に突き当たります。
もし完璧な平和が訪れたなら、警察官や裁判官、争いごとを調停する弁護士は不要になります。家の鍵を作る職人も、セキュリティ会社や防犯カメラの製造会社も、あるいは未来の事故に備える保険会社もいらなくなるでしょう。
私たちは「平和」を願いながらも、皮肉なことに、現代社会のシステムの大部分は、人間の「過ち」「悲劇」「恐れ」を前提として、それを管理するために組み上げられているのです。
では、なぜ私たちの願うユートピアは、いつも夢の世界で終わってしまうのでしょうか。 歴史上、多くの賢人や指導者が、法律を整え、システムを変え、争いのない理想郷を作ろうと挑みました。しかし、どれも幻に終わっています。その理由は、とてもシンプルで、そして痛ましいものです。
争いの火種は、外側の環境や制度の不足にあるのではなく、私たち一人ひとりの「人間の心」の中に深く根を下ろしているからです。
自分の大切なものを守りたいという恐れ。 他者と自分を比べてしまう嫉妬。 自分だけは損をしたくないという自己中心的な思い。 この「内なる弱さ」がある限り、どれほど外側のシステムを完璧に整えても、ユートピアのガラスは内側から簡単にひび割れてしまうのです。
普遍的な真理への昇華:世が与える平和との違い
聖書の言葉は、この人間の限界を静かに見つめ、全く別の角度から「平和」について語りかけます。イエス・キリストは、十字架にかかる前夜、不安に怯える弟子たちにこう語られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネによる福音書 14章27節)
「世が与える平和」とは、事件や事故、戦争という「問題がない状態(ユートピア)」を作ろうとする試みです。しかしそれは、人間の脆い心の上に建つ、砂上の楼閣に過ぎません。一方、キリストが与える「わたしの平和」とは何でしょうか。
それは、どれほど問題だらけの現実の中にあっても、神様に完全に愛され、赦されているという「魂の絶対的な安心感」です。外側の環境がどうであれ、内なる恐れやエゴを神様に委ねたとき、私たちの心の中に、決して誰にも奪われない静かな泉のような平和(シャローム)が湧き上がるのです。夢物語のユートピアを待ち望むのではなく、不完全な自分自身をまず神様の前に差し出し、その傷だらけの心を平和で満たしていただくこと。それこそが、争いを止める唯一の出発点です。
足元から平和を灯す者として
私たちは、今日すぐに世界中から武器をなくし、すべての争いを止める魔法を持っていません。夢のようなユートピアを、地球全体に創り上げることはできないかもしれません。
しかし、自分の足元にある、小さな半径数メートルの世界を平和にすることはできます。 帰りを待つ家族のために、温かい食事を用意し、労いの言葉をかけること。
職場で孤独を感じている人に、優しい眼差しを向けること。 それらは、軍隊を解体するほど派手ではありませんが、世が与えることのできない「キリストの平和」を、この現実に確かに根付かせる力強い一歩です。完璧な世界でなくても、私たちは今日、平和を創り出す者として遣わされていきます。
自分の弱さを知り、神様の愛によって心を満たされた者だけが持つ、柔らかな強さを胸に秘めて。明日は、この世に教会が誕生したペンテコステ礼拝です。
まもなく時計の針は、明日を指そうとしています。最後まで、共に前進です。
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