「東北学院土樋キャンパス礼拝説教」25-MAY-2026
説教題:「弱さ」でつながる勇気 ―― 孤立ではなく、共に歩む自立へ
聖 書:コヘレトの言葉4章9〜10節
一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。
たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。/一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。
5月も下旬に入りました。新緑が美しい季節ですが、皆さんの心のコンディションは
いかがでしょうか。 4月の緊張感がふっと切れ、大型連休が終わって日常に戻った今、「なんだか力が入らない」「周りのみんなは楽しそうなのに、自分だけが取り残されている気がする」……そんな、言葉にできない「重さ」を感じている人もいるかもしれません。今の私達は、「一人で何でもこなせること」が自立だと教えられてきました。弱音を吐かず誰にも迷惑をかけず、スマートに生きること。しかしその「スマートな自立」を目指せば目指すほど、私たちは誰にも助けを求められない「孤独な檻」の中に閉じ込められては
いないでしょうか。
今日読んだ聖書の言葉は、非常に現実的です。「たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。」と語っています。ここで注目したいのは、聖書が「人は必ず倒れる者だ」という前提に立っている点です。私達はつい、「倒れないようにしなければ」「弱さを見せてはいけない」と自分を追い込みがちです。しかし人生という長い道のりで、一度もつまずかない人などいません。むしろ聖書は倒れる事そのものを否定していないのです。大切なのは、倒れないことではなく、倒れた時に誰かがそばにいること。そして、誰かが倒れた時に自分が手を差し伸べられる事。神様は、私達が「一人で完璧に生きる」ことを求めておられません。むしろ弱さを抱えた者同士が支え合い、助け合いながら歩む事を
望んでおられます。私達が互いに寄り添い、倒れた者を起こし合う時、そこに神の国が─つまり、神の愛が息づき、広がっていく姿が現れるのです。本当の意味で「自立」して
いる人とは、自分の限界を知っている人です。「ここからは自分の力だけでは無理だ」
「助けてほしい」と、自分の「弱さ」を正直に開示できる力。これを最近では**「受援力」**と呼んだりします。
皆さんの周りを見渡してみてください。皆、完璧に見えるかもしれませんが、実は誰もが「助けてくれる誰か」を必要としています。自立とは誰にも頼らない事ではありません。神様の眼差しの前に立ち、自分の弱さを認め、その弱さを介して誰かと手をつなぐこと。それこそが、聖書が教える「共に生きる」の第一歩です。
あなたが「助けて」と言ったその一言が、実は同じように苦しんでいた隣人の心を救う「光」になることもあるのです。
私は毎週、100キロを超える距離を走ります。一人で走る30キロ、40キロは、時に孤独で、足が止まりそうになる時もあります。しかし、誰かが横を走っていたり、応援の声をかけてくれたりするだけで、不思議と新しい力が湧いてくるものです。
皆さんの大学生活というレースも、一人で走り切る必要はありません。あなたが倒れそうになった時、主は必ず「助け手」を送って下さいます。そして何より、主ご自身があなたのすぐ隣を、あなたのペースに合わせて伴走して下さいます。もし今、何かに躓き、立ち上がれないと感じているなら、そのままで大丈夫です。主はあなたが倒れているその場所まで降りてきて、手を差し伸べておられます。その手を握り、隣にいる仲間の手を取ってもう一度ゆっくりと歩き出しましょう。「弱さ」は、あなたを孤立させるものではなく、
誰かと深くつながるための「鍵」なのです。
祈祷:主なる神様、 わたしたちが自分の弱さを受け入れ、その弱さの中から生まれる
新しい歩みを、あなたが支え導いてくださいますように。 主の御名によって祈ります。
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