デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年5月9日土曜日

犠牲を喜びに変える秩序

 

昨日は小松菜を四束飼ってナムル風のおかずを作りました。4日間留守になるので。

命の重みを引き受ける「覚悟」という名の自由 ―― 犠牲を喜びに変える秩序

午前二時の階段、十三年目の足音

来週、愛犬のノアは十三歳の誕生日を迎えます。今朝も午前二時、私はノアと共に静かな散歩へ出かけました。階段を自力で上り下りするその姿に感謝し、一歩一歩を愛おしむ。この十三年という月日、散歩も、餌の調達も、シャンプーも、その多くを私は一人で担ってきました(仙台に来てからは、シャンプーのあと妻が毛を乾かすのを手伝ってくれるようになりましたが)。

「大変ではないですか?」と問われれば、正直に「大変です」と答えるでしょう。けれど、そこに不満はありません。なぜなら、命を家族に迎えると決めたとき、私は自分自身とある「約束」を交わしたからです。


 


「楽」の対極にある、愛と忍耐のカギ

現代の私たちは、つい「楽であること」を基準に物事を選ぼうとしてしまいます。「子どもは欲しいが、育児が大変だから悩む」「ペットは欲しいが、世話が大変だからやめておく」。そうした逡巡は、実は非常に誠実な反応です。覚悟なしに命を引き受け、後になってその重みに耐えきれず手放してしまう悲劇に比べれば、その悩みは命に対する敬意の表れでもあります。命を授かることは奇跡ですが、その命を育てることは、それ以上の「愛と忍耐」を要する研鑽です。犠牲なしに子育てはできず、犠牲なしにペットと生きることもできません。ここで重要なのは、その犠牲を「誰か一人」に押し付けないことです。家族それぞれが、自分にできる犠牲を捧げ合う。その調和があって初めて、命は健やかに育まれます。


 


新しい一歩が、誰かの重荷にならないために

私は週に百キロ以上を走りますが、それによって家事などおろそかになったことはありません。むしろ、走ることで得たエネルギーを、積極的な買い物や料理、車での送り迎え、掃除、そして週二回の洗濯へと注ぎ込みます。

「自分が新しいことを始めることで、家族が不便になり、誰かが犠牲を強いられるなら、それは止めておいたほうがいい」これが私の信条です。

家族がいつものように、平和に過ごせているという前提があってこそ、私の「百キロラン」という挑戦もまた、健全なものとなります。この秩序と平和を守り抜くための努力は、時に自分を追い込む厳しいものかもしれません。けれど、愛する者たちの笑顔を守るための苦労には、それ以上の価値が十分にあるのです。

聖書は、私たちが互いに負い合うべき姿をこう示しています。

「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。」(ガラテヤの信徒への手紙 62節)


 

ノアちゃん食事すんだよ、との徴です!

犠牲こそが、真の平和を編み出す

真の自由とは、何も義務を負わないことではありません。「この命のために自分を捧げる」という覚悟を持って、自ら喜んで重荷を背負うとき、人は不条理な世界のさなかで、壊れることのない「真の平和」を見出すことができます。

私がキッチンで野菜を刻む音、ノアを洗う水の温度、そして夜明けの路上を駆ける足音。そのすべては、バラバラなようでいて、一つの「家庭という共同体」を守るための祈りの調べとなっています。誰かの犠牲を当然と思わず、自らが進んでその一部を担うとき、そこには「支配」ではなく「仕え合う喜び」が生まれます。


 


玄関ドア前に寝ていると外に出るのに迷う時がある。起こしたら悪いから。でも妻はいいのよ、開ければ起きるから・・・冷たいな!とわたしは考えるが・・

自分との約束を、今日もう一度

あなたが今、誰かのために払っているその「犠牲」は、決して無駄ではありません。もし、その重荷に心が折れそうになっているなら、少しだけ立ち止まって、自分との「最初の約束」を思い出してみてください。そして、その重荷を分かち合える場所があることを信じてください。

「大変さ」の向こう側にしか咲かない、愛という名の花があります。家族の秩序と平和を守るためのあなたの努力を、主は必ず見ておられます。

今日という一日を、大切な誰かのための「良き犠牲」と共に、丁寧に生きていきましょう。

今日も、共に前進です。

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