**連載コラム 第1回「奉仕と報酬:教会における働きの真の意味を求めて」**
「教会の奉仕は神への献げ物なのだから、報酬を受けるべきではない」——この考え方は、日本の教会において長く尊重されてきました。主イエスが示されたように、奉仕とは見返りを求めず、神と隣人への愛から生まれる行いであることは確かです。しかし、だからといって、奉仕に注がれる労力や時間、賜物に対する感謝や具体的な支援が不要である、という結論にはなりません。むしろ聖書は、神の働きに携わる者を支えることの重要性を繰り返し語っています。
聖書に学ぶ「働く者の報酬」
主イエスは弟子たちを宣教に遣わす際、「働く者が報酬を受けるのは当然である」(ルカ10:7)と語られました。ここでいう「報酬」とは、単なる労働の対価ではなく、神の言葉を伝える働きを続けるために必要な生活の糧を指しています。弟子たちは自給自足ではなく、受け入れる共同体の支えによって使命を果たしました。使徒パウロも「福音を宣べ伝える者が福音によって生活するように主が定められた」(Ⅰコリ9:14)と述べています。パウロ自身は状況に応じて自ら働きながら伝道しましたが、それは「報酬を受ける権利がない」からではありません。旧約において祭司やレビ人が捧げ物によって生活を支えられたように、神の働きに献身する者を支えることは、聖書全体に流れる原則なのです。
「見えない奉仕」への感謝というかたち
教会には、牧師や説教者だけでなく、多くの人々が賜物を用いて奉仕しています。たとえば礼拝を音楽で支えるオルガニスト。彼らの奉仕は礼拝の数十分だけではありません。週に何度も練習を重ね、説教のテーマに合わせて讃美歌を選び、祈りつつ音を磨き上げます。その働きは、会衆の心を神へと向け、礼拝に霊的な深みを与える「見えない奉仕」です。こうした奉仕は単なる趣味ではなく、神から与えられた賜物を教会のために捧げる尊い働きです。ゆえに、教会が示す「報酬」は対価ではなく、奉仕の価値を認め、感謝を具体的に表すしるしであり、奉仕者が安心して働きを続けられるよう支える「愛の表現」なのです。
信仰共同体の成熟と福音の証し
賜物を用いて奉仕する者を教会が適切に支えることは、共同体の成熟を示す証しでもあります。互いの賜物を尊重し、支え合うとき、教会はキリストの体として健全に機能します。奉仕者が経済的な不安なく働けることは、教会全体の宣教の質を高めることにもつながります。また、奉仕者を大切にする姿勢そのものが、福音の証しです。世の価値観とは異なり、教会は神の恵みに基づいて奉仕者を尊び、支えることで、互いに愛し合う共同体の姿を世界に示します。それは、奉仕が義務ではなく、神と隣人への愛から生まれる喜びであることを証しする行為でもあります。
この連載を通して、教会における奉仕と報酬の関係を、聖書的・神学的・文化的視点からさらに深めていきたいと思います。すべての奉仕が正しく尊ばれ、愛と感謝によって支えられる教会であるために、共に理解を深めてまいりましょう。

0 件のコメント:
コメントを投稿