遠ざかる旅路と、食卓の温もり——愛という名の「境界線」を受け入れる夜
蓄積した疲労と、ささやかな食卓
3日連続で自分自身を追い込んだ朝ランの代償として、今日の体には、芯からずっしりとした深い疲労感が沈殿しています。これほど疲れた日は、無理をして完璧を求める必要はありません。今日の夕食は、近くの「まるしん」のお惣菜に頼ることにしました。私は刺身、妻は焼き魚、そして娘はチキンナゲットとメンチカツ。それぞれが好むものを並べた食卓に、せめてもの手作りの温もりとして、レタススープだけをことことと煮て添えました。明日は、休息日です。心も体も、今はただ静かに「休むこと」を強く求めています。
秋保への道と、手放した非日常
ふと、ネットで現在「仙台とく旅」というキャンペーンが行われており、宿泊が30%オフになるというニュースを目にしました。以前、この制度を利用して、家族3人で秋保の温泉まで足を伸ばし、くつろいだ日のことを思い出します。しかし、私たち家族が揃って泊まりで出かけられるのは、せいぜいその「秋保」という距離が限界です。なぜなら、私たちの帰りを家で待っているノアがいるからです。あの秋保の夜、私は早朝4時ごろにそっとホテルを抜け出し、車を走らせて一度家に戻りました。ノアの散歩を済ませ、朝ごはんを食べさせてから、再び秋保のホテルへととんぼ返りをしたのです。その一連の経験を経て、「これからはもう、泊まりで出かけるのはやめよう」と。決めています。
制限のなかに宿る、本当の安息
旅を手放すこと。遠くへ行く自由を捨てること。それは一見すると、人生の楽しみを失い、何かに縛られているように感じるかもしれません。しかし、愛する命のために自らの行動範囲を狭め、その「境界線」を穏やかに受け入れることは、決してネガティブな諦めではありません。それは、「喜んで仕える」という、人間の最も尊い愛の形です。
聖書に、このような主イエスの招きの言葉があります。
「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書 11:28)
私たちが魂の底から求めている「真の安息」は、遠く離れた非日常のリゾート地や、特別な体験のなかにだけあるのではありません。自らが選び取った愛の絆の中で、共に生きる命の重みを引き受けながら、その日の労苦を終えていつもの食卓を囲む。その平凡で、時に泥臭い日常のなかにこそ、神が用意された本当の安らぎが隠されているのです。
満たされた疲労を抱きしめて
今日という一日、本当にさまざまなことを考えながら過ごしました。 正直なところ、深く疲れています。しかし、この心地よい疲労感は、決して無為に過ごした結果ではありません。家族を思い、ノアを愛し、自らの足で懸命に走り抜いた証としての、尊い疲労です。
- 遠くへの旅を手放し、目の前にある命を最優先に守り抜くこと
- 完璧さを求めず、お惣菜の力を借りて笑顔で食卓を囲むこと
- 自分の「疲れ」を素直に認め、明日の休息を静かに受け入れること
遠くへ行けなくとも、私たちの人生の旅は、この家の中で豊かに続いています。今夜は、この満たされた疲労と共に、目を閉じようと思います。
今日も、共に前進です。

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