雨音のクレッシェンドと、縛られない魂のしなやかさ
日付が変わり、新しい一日が産声を上げたばかりの土曜日、0時14分。ノアと共に、夜の静寂へと歩み出しました。頬に触れるか触れないかほどの、ごくわずかな小雨。 すれ違ったのは一人の歩行者、そして通り過ぎていくタクシーと原チャリが一台ずつだけでした。街全体が深く長い呼吸をしているような、ただひたすらに静かな夜です。
帰宅してゴミ出しを終え、机に向かって仕事をしていると、窓を打つ雨の音が少しずつ強くなっていることに気がつきました。 もう一度眠りにつこうと二度寝を試みましたが、意識は静かに冴えわたり、眠りは訪れません。焦ることはせず、その自然な流れに身を任せて起き上がり、再び仕事に向かいました。
自分で決めたルールという「鎖」
今日は本来なら、ランニングの日です。 しかし、私は窓の外の空気を確かめ、天候の状況を見てから走るかどうかを判断することにしました。
私たちは生きる中で、いつの間にか「自分で作ったルール」の奴隷になってしまうことがあります。「一度決めたことなのだから、何が何でもやらなければならない」。そんな真面目さや責任感は、時に私たちの心を窮屈に縛り上げ、目的と手段をすり替えてしまいます。走ることで活力を得るはずが、走るという「義務」にエネルギーを奪われてしまうのです。しかし、私は「決めたことは絶対に行う主義」ではありません。
その時々の状況、自然の移ろい、そして自分自身の状態に合わせて進める。その「しなやかさ」こそが、今の私の土台となっています。
何にも縛られない、真の自由
- 時間に縛られない。
- お金に縛られない。
- 仕事に縛られない。
- そして、「自分の過去の決定」にすら縛られない。
- 唯一、縛られて生きるのは主なる神様の愛にのみ。
真の自由とは、自分勝手に振る舞うことではなく、自分の小さなコントロールを手放し、その瞬間に与えられた大きな流れ(天候や状況、あるいは神様の導き)に対して、柔らかく応答していく姿勢のことではないでしょうか。
聖書に「御霊の吹くところは自由である」というニュアンスの言葉があるように、私たちの魂は本来、何ものにも縛られない軽やかさを持っています。強まる雨音を聞きながら、「今日は走らなくてもいい、別のことをしよう」と計画を脇に置くとき、そこには律法主義的な重圧からの解放と、深い安息があります。
軽やかな足取りで
雨の日は雨の日の、晴れの日は晴れの日の歩み方があります。 予想通りに進まないこと、計画が変更になることを嘆くのではなく、「今日という日が、私に何を求めているのか」に静かに耳を澄ましてみませんか。
何にも縛られない、自由で軽やかな心をもって。
今日も、共に前進です。
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