真夜中の雨と、13年の足跡 ── 祈りに包まれた足元
◆ 23時過ぎの静寂と、優先される命
昨夜、時計の針が23時を回った頃。激しかった雨が少しだけ弱まったその隙間を縫って、ノアと共に夜の闇の中へ歩み出しました。
雨の日の、この夜遅くの散歩。実は我が家では、決して珍しい光景ではありません。自分の睡眠時間を削ってでも、ノアのことが気にかかるのです。
- 雨の切れ間を待つ、静かな忍耐
- 眠りよりも優先される、小さな命への責任
- 「これで13年間も一緒にやってきたのだから、大丈夫」という確かな絆
冷たいアスファルトを踏みしめながら、リード越しに伝わるノアの息遣いを感じる時、
そこには不思議な安らぎがあります。そうして夜の空気を吸い込んでいるうちに、静かに日付が変わり、新しい一日が始まりました。
◆ 復活の朝と、降りしきる大雨
日曜日。キリスト教では「主の日」と呼ぶ特別な一日です。イエス・キリストが死の暗闇から復活なさったのが日曜日であったことから、その名が付けられています。
しかし、今日の「主の日」は、恵みの光が差し込むような空模様ではなく、朝から大雨の予報です。それでも、心の中には「これも良し」と受け止める静けさがあります。雨には雨の日の、神様の御心があるからです。
ただ一つ、深く案じられることがありました。それは、激しい雨の中を教会へ足を運ばれる方々のことです。
◆ 「心の問題」では片付けられない現実
「足元が悪くなる中を礼拝に集うのは、信仰という心の問題だろうか?」
ふとそんな問いが頭をよぎりました。確かに、困難を乗り越えて集う心は尊いものです。しかし、教会に集うお年寄りの方々の顔を思い浮かべた時、決して「心の問題」だけで片付けてはいけないという強い思いが湧き上がってきました。
ご高齢の方にとって、雨で滑りやすくなった道や、水溜りを避けて歩くことは、晴れの日とは比べ物にならないほどの身体的な負担と危険を伴います。精神論で覆い隠してはいけない、切実な「肉体の現実」がそこにはあるのです。
◆ 守り手は、まどろむことがない
聖書の中に、このような詩編の言葉があります。
「主はあなたの足を滑らせることをお許しにならない。あなたを守る方はまどろむことがない。」(詩編 121:3)
昨夜、私が自身の眠りよりもノアの散歩を優先し、その歩みを13年間見守り続けてきたように。神様もまた、まどろむことなく私たちの歩みを見つめ、雨の日の滑りやすい足元を案じてくださっているはずです。
大雨の主の日。私はただ、ひたすらに祈ります。 どうか、今日その道を歩む一人ひとりの足元が、確かな御手によって守られますようにと。
雨の冷たさを知っているからこそ、私たちは互いの弱さに寄り添い、祈り合うことができます。そろそろ二度寝をしないといけませんね……。
気づけば、もう0時23分を過ぎていました。
今日も、共に前進です。
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