ドライブスルーの温かな紙袋と、「一日一生」を走り抜く覚悟
昨日は、娘の学校が1限と2限だけで終わる日でした。
朝、駅まで車で送りながら「じゃあ、お昼はマックでも買って家で食べようか」と言葉を交わしました。お昼ごろに妻を八木山まで送り届け、そのまま駅へ向かうと、ちょうど到着した娘を拾うことができました。近くのマックのドライブスルーに寄り、温かな紙袋を抱えて家で昼食を共にする。
妻のためにはアップルパイを単品で購入しました。こうした親子でのささやかな場面は、年に2〜3回あるかないかの特別な時間です。
娘の好みに合わせる、残りわずかな季節
テーブルを囲みながら、ふと心の中で思いました。「やはり自分は、マックはもういいかな」と。 もともとファストフードは好きではなく、自分の意志で買うことなどほとんどありませんでした。この数年、マックを口にしてきたのは間違いなく娘の影響です。彼女が学校を卒業し、やがて巣立っていけば、私が自らの足でこの店に向かうことはもうないでしょう。自分の好みとは違うけれど、娘が喜ぶものを共に味わう時間。
それもまた、親に許された愛の表現のひとつの形です。やがて過ぎ去っていくこの愛おしい季節を思いながら、私は静かに「これも良し」と受け入れていました。
歯を抜き、限りある命を覚える朝
そして今日、私は歯医者に向かいます。 私が歯医者に行く理由は、いつも決まっています。「抜歯」のためです。それ以外で通うことはほぼありませんし、そもそも事故でもない限り、病院に行くこと自体がありません。それは決して、自分の健康に絶対の自信があるからではありません。
むしろ逆です。「人はいつ、何が起こるかわからない」という、人間の命のどうしようもない脆さを知っているからです。歯が一本抜け落ちていくように、私たちの肉体という天幕は、少しずつ確実に古びていきます。だからこそ、自分の命の期限を思い煩うのではなく、ただ「与えられた一日」を人生の最後の日として受け止め、そこに向き合うことしかできないのです。
一日一生──すべてを注ぎ尽くして生きる
日本の偉大な思想家であり信仰者であった内村鑑三は、「一日一生」という言葉を残しました。 一つの日が、ひとつの生涯である。まさにその通りだと、深く頷く自分がいます。明日という日は、誰にも約束されていません。だからこそ、自分に許された「今日」という一つの小さな生涯を、一切の悔いなく生き切るのです。
- 精一杯に、目の前の人を愛する。
- 精一杯に、家族のために料理の腕を振るう。
- 精一杯に、教会と人々に仕える。
- 精一杯に、夜明けの道を走る。
- 精一杯に働き、精一杯に歩み続ける。
力を温存して生きる必要などありません。「休むのは、死んだ時だけでいい」のです。 命のすべてを燃やし尽くし、天に召されたその時にこそ、私たちは永遠の安息(安らぎ)という最高の休息を与えられるからです。そう信じて今日を完全燃焼することもまた、「これも良い」と心から思えるのです。
自分の好みを手放して笑い合った昨日の食卓も、痛みを伴う今日の抜歯も、すべては「今日という生涯」に与えられた尊い出来事です。
また、昨日は、いつもの床屋さんで髪を切り、ついでにカラーもしてきました。 2か月に一度の「外見メンテナンス祭り」です。椅子に座った瞬間、視界の端にキラリと光るカードが。
「60歳以上シニア割引・200円引き」
……なるほど。 店側はやさしく背中を押してくるわけです。
しかし私は、心に決めているのです。 “シニア割は70歳になってから堂々と使う” と。
まだ60代で使うのは、なんだか“フライング気味の老成”のようで、 自分の中の小さなプライドが「まだ早い」と囁きます。というわけで今回も、通常料金をきっちりお支払い。 財布は少し軽くなりましたが、心はなぜか晴れやか。
これもまた、良し。 人生には、こういう“誰にも理解されなくても自分だけは満足できるこだわり”があっていいのだと思います。
今日も、共に前進です。


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