カプセルに詰めた不器用な愛——迷宮で見つけた父の心
無数の機械と、慣れない手つき
先日、娘からのささやかな頼み事を胸に、ヨドバシカメラの2階へと足を踏み入れました。そこは「ガチャガチャ広場」。無数の機械が壁のように立ち並び、色とりどりのプラスチックカプセルが光を反射する、一種の迷宮のような空間でした。
頼まれた特定のモデルを探して歩き回るものの、あまりの数と種類の多さに圧倒され、目当てのものは一向に見当たりません。人生で初めてのガチャガチャ。どうしていいか分からず戸惑いながらも、結局「似た雰囲気」のモデルを選び、硬貨を入れてダイヤルを回しました。カチャリ、と落ちてきた小さなカプセル。正直なところ、この途方もない捜索作業は「もう二度としたくはない」と心底思いました。
手ぶらで帰れない「父のメカニズム」
家に帰り、事の顛末と「結局、お目当てのものはなかった」という事実を妻に話しました。すると妻は、いとも簡単にこう言ったのです。
「なかったら、別に(買わなくて)いいんじゃない!」
その言葉は、あまりにも正論でした。ここに見えるのが、父親と母親の思考の決定的な違いです。母親は「目的のものがなかったのだから、買わずに帰るのが筋だ」と、事実に基づいた合理的な判断を下します。一方で父親である私は、「目的のものがなかったからこそ、せめて『代わりの何か』を買って帰らなければ」と考えてしまったのです。
この非合理な行動を引き起こす心のメカニズムとは、一体何なのでしょうか。 それはきっと、相手をがっかりさせたくない、という不器用な愛情の現れです。たとえ的外れであったとしても、「あなたのことを思いながら探した」という事実を、目に見える形で持ち帰りたかった。手ぶらでドアを開けるという選択肢が、どうしても選べなかったのです。
見えない動機を拾い上げる眼差し
私たちの日常の愛は、時にこのガチャガチャのように的外れで、不格好なものです。良かれと思ってしたことが空回りしたり、代用品でしのごうとして却って呆れられたりもします。しかし、聖書にはこのような言葉があります。
「人は目に映ることを見るが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)
人間は結果や形、その「代用品」の価値で物事を判断しがちです。妻の言葉のように、結果が伴わなければ意味がないと切り捨てることもできるでしょう。しかし、天にある眼差しは、その不器用なカプセルの背後にある「喜ばせたい」「手ぶらでは帰れない」という、もどかしいほどの愛の動機そのものをじっと見つめ、受け止めてくださっています。
不格好な愛を抱えて
完璧な正解を見つけられなくてもいい。的外れな代用品を握りしめて帰る日があってもいいのです。私たちの行動はしばしば滑稽で非合理ですが、その根底に流れる「誰かを思う温かなメカニズム」を、自分自身で否定する必要はありません。
- 期待に応えようと焦る自分を、許すこと
- 違いを笑い合える家族の存在に、感謝すること
- 不器用な愛の形を、そのまま愛おしむこと
カプセルの中身が何であれ、それを持ち帰ろうとしたあなたの足取りは、確かに愛の歩みです。今日という日も、完璧さを手放し、少しのユーモアと不器用な優しさをポケットに入れて歩き出しましょう。
今日も、共に前進です。
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